*本誌は横書のため、漢数字を算用数字に修正して掲載します。
日清戦争に勝利した日本は、講和条約によって清国から台湾を割譲され、日本の台湾統治と同時に台湾の近代教育も始まりました。
東京師範学校長をつとめ、音楽教育の先駆者でもあった伊澤修二は、日本全国から志の高い優秀な教師を募集し、講和条約締結から2ヵ月後の6月14日、文部省学務部長心得として樺山資紀・台湾総督とともに台北に着任しています。
伊澤の教化方針は、台湾人は知徳量や推理力、観察力に優れ、日本人に気風が似ているなどの観点に鑑み、徐々に同化してゆく混和主義で臨んだそうです。
6月17日の総督府始政式翌日には大稲●で学務部事務を開始し、26日に士林に最初の学校である芝山巌学堂を開きました。
7月16日には学堂において7人の台湾人子弟に国語の伝習を始めました。
まさに台湾で近代教育が始まったのがこの日であり、教師たちは身魂をなげうって台湾人子弟の教育に当たっていました。
3ヵ月後の10月17日には甲組六名に修業証書を授与し、初めての卒業生を送り出しています。
(●=土偏に呈)
しかし、統治間もない台湾はまだ政情不安の最中にあり、日本人を敵視する匪賊も少なくなく、周辺住民は再三退避を勧めたものの、教師たちは「身に寸鉄を帯びずして群中に入らねば、教育の仕事はできない」と学堂を離れませんでした。
翌明治29年1月1日、台湾総督府における新年拝賀式に出席するため、6人の教師が芝山巌を下山しようとしたとき、100人ほどの匪賊に取り囲まれてしまいました。
教師たちは諄々と道理を説きましたが、匪賊は槍などで襲いかかり、衆寡敵せず全員が惨殺されてしまいました。
この非命に斃れた六人の教師は、楫取道明、関口長太郎、桂金太郎、中島長吉、井原順之助、平井数馬であり、後に「六士先生」と尊称され、明治31年秋の例大祭にて靖國神社に合祀されています。
伊澤は、帰国中に起こったこの悲報を聞いて台湾に戻り、7月1日には、来台していた伊藤博文総理に揮毫を依頼して「学務官僚遭難之碑」を建て、遺灰を芝山巌に合葬して慰霊祭を催しました。
昭和5年には芝山巌神社も建立されています。
台湾における児童の就学率は、統治初期には2パーセントほどだったにもかかわらず、昭和19年には92.5パーセントにまで伸びました。
台湾の人々は今でも芝山巌を「台湾教育の聖地」とし、教師としての使命を自覚して教えの道に徹し、名利や見返りを求めぬこの無私の精神を「芝山巌精神」と讃えています。
近年、日本でも、愛知県西尾市では関口長太郎顕彰会により関口長太郎命の慰霊祭が取り行われ、熊本市でも平井数馬顕彰会により平井数馬命の慰霊祭が営まれるようになっています。
今年は芝山巌事件から130年の節目の年に当たります。
顧みれば、日本と台湾の絆の淵源は、ここ靖国神社ご祭神の六士先生が一死を以て遺された芝山巌精神にあることに思い至ります。
我ら一同、ここに報恩の誠を捧げるとともに、その偉業を語り継ぎ、日台共栄に尽力することをお誓い申し上げます。
令和7年6月22日
日本李登輝友の会事務局長 柚原 正敬 参列者一同
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