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台湾と靖國神社の縁(えにし)は深い。その最大の所以は、台湾は明治二十八(一八九五)年から昭和二十(一九四五)年までの五十年間、日本統治時代を経たことで、大東亜戦争では約二十一万人が軍人・軍属として出征、そのうち戦歿された二万七千八百六十四柱が御祭神として祀られているからだ。
また、靖國神社の正門に当たり、両扉に直径一・五メートルにも及ぶ菊の御紋章が映える神門は昭和九年に竣工されている。ここで用いられている資材はすべて台湾の阿里山檜だ。今でも、近づけば檜の香が漂ってくる。
さらに、靖國神社では毎日必ず日章旗を掲揚しているが、大鳥居(第一鳥居)をくぐった左側に、高さ三〇メートルに及ぶ、まさに天を突くと言ってよい国旗掲揚塔があり、これは昭和五十一(一九七六)年に台湾軍第四十八師団復員者により寄贈されたものだ。
因みに、台湾では朝鮮に遅れること四年、昭和十七(一九四二)年に陸軍特別志願兵制度が実施され、同年の採用者数千二十人に対してなんと四十二万五千人も応募(倍率=四一八倍)し、翌十八年には千八人の募集に六十万人も応募(倍率=五九六倍)する事態となった。昭和十九年からは朝鮮と台湾に海軍特別志願兵制度が実施され、採用者数も二千四百九十七人に増員したため、倍率こそ三〇四倍と落ちたものの、七十六万人も応募していた。中には血書嘆願した者も少なくなかったという。
このような熱狂的と言っても過言ではないほどの志願兵への応募というのは、果たして世界に類例があるのだろうか。寡聞にして私は知らない。
ところが、このように自分たちの同胞が祀られているにもかかわらず、台湾の人々は靖國神社についてほとんど知らない。知っていても、参拝する人は少なかった。
例えば、戦時中、神奈川県の高座海軍工廠で戦闘機「雷電」の生産に汗を流した「台湾少年工」と呼ばれる人々がいる。働きながら学べるとして、台湾各地の成績優秀者が少年工に選抜され、昭和十八年から八千四百人余が軍属の身分で来日した。不幸にも、空襲で戦歿された方もいる。 |
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