李登輝元総統談話
平成22年(2010)6月11日台北御自宅にて【1】
※本ページは、日本李登輝友の会愛知県支部HP【活動履歴】「第4回台湾研修ツアー」3ページにリンクされています。
 第4回台湾研修ツアー初日、表敬訪問として李登輝元総統宅へ招かれる栄を浴する機会を得、いただいたお話しをまとめました。

 リーマンショックで世界経済がおかしくなったことについて>>
――― 闇の銀行が、色々な操作をする。世界貨幣基金が、取締りをせず、アメリカは高い利息で変な債権を作ってあちことで売りまくってきた。日本は、このデフレ状態が長い。経済学者が沢山いるのに何故、政府は動かないのか。お年寄りが安心して、銀行へお金を預けられる状況を作らなければならない。

 台湾の民主化について>>
――― 台湾は、大陸反抗で取り戻そうと掛け声だけ上げていたが、既にそれだけの力は無く、戒厳令、政党禁止、言論統制など、人民に強制していた。
 中国大陸と内線停止するならもっと良い掛け声をしたら良いではないかと思い、1989年国家統一インラインをつくった。反抗大陸をやらないで平和的な国家統一をやろうと。その代わりに国家等一綱領を作った。その前置きに、中国共産党は民主的な国になる。国民に自由を与え、お金が平均的に分配されるようになったら、話し合いをしましょう。如何にして国を統一するか、可能ならどういう組織にするか。第三段階でどうするか。
 実は、できない内容。しかし出来なくともこれをやらなければ、反抗大陸を言う。1991年、思い切って総統権限で動員戡乱時期停止をした。

 白色テロについて>>
――― 1947年交付の中華民国憲法から臨時条款をつくった。憲法に代わるものでいわゆる、万年国会議員、死ぬまで総統。言論統制と「白色テロ」が始まる。日本では、幕末に井伊大老がやったものが白色テロ。
―――ここで竜馬の話になる。
 坂本竜馬、長浜の13mのを小さくして彫ってくれたのをもらった。こういう人がいて命を投げ出し、大政奉還、薩長同盟をやった。見事に日本は内戦を起こさなかったが、その後、彼は殺されちゃった。彼は、革靴を履いている。懐には短銃。日本人ではやらなかったこと。私は、司馬遼太郎さんとは仲が良い。坂本竜馬が大好きで、若い人には、船中八策を話したい。

 陳水偏元総統について>>
――― 総統は、二回まで。で私も二回で辞め、いい人にやってもらおうと思ったが、考えるようには上手くいかない。国民党の中から反対者が出て、私が立てた人物が落選した。そのせいで民進党から陳水偏が当選しちゃった。彼の話は、話しきれないほどあるが、8年間、総統をして汚職、汚職をして未だに牢屋にいる。雪解けで放免しろというが・・・ここから、シンガポールのリー・クワンユー元首相の英国流から、日本の台湾統治に話が遡り、陳水偏氏の話は後述となる。
 後藤新平>>
――― 第4代台湾総督、児玉源太郎のもと、後藤新平は、日清戦争帰還兵に対する検疫業務を行い、流行病に掛かっているのを治してから帰還させた。これは、世界で初めてのことであり、ビスマルク勲章を受けている。日本人は彼を大風呂敷というが、今までの人と全く考えが違う。坂本竜馬に匹敵する人物。板垣退助が右翼に切られたときに、飛び込み、治したこともある。 「後藤新平は、台湾人1万人を殺した、けしからん!」と言う者がいるが、これは嘘。実際には、それ以前の総督が行なったもので、盗賊や日本に反抗したものを一番殺したのは、乃木大将。彼は真面目だったからな。反抗する者許さん!という感じだったのだろう。後藤は、盗賊らに土木工事をやらせる。収入があるから、その後、ゴロツキにならない。日本の植民地政策は教育から始めた。左翼は、西洋みたいに略奪をしているように嘘の歴史を言っている。
 彼は、土地改革をして、土地売買が自由になり、基隆から高雄まで鉄道が出来、総督府を中心に行政機関ができた。
 アヘンを吸うものを清朝は処罰したが、後藤は、継続的に吸わせ、減らしながら治療した。蓬莱米を作り日本へ売った。そして新渡戸稲造を呼んだ。彼の仕事は、総督についてきたゴロツキをクビにして有能な人間を連れてきた。人事の交代が彼の初仕事だった。後藤新平によって台湾は近代化され、高等学校、帝国大学ができ、台湾人も世界に肩を並べられるようになった。
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