【黄 霊芝氏を偲んで(六)】—–台湾の俳聖逝く—–

【黄 霊芝氏を偲んで(六)】—–台湾の俳聖逝く—–
【黄 霊芝氏を偲んで(六)】—–台湾の俳聖逝く—–
                 
        酒井杏子(さかい あんずっこ)

* 「時代」について
 黄霊芝氏の思いの中に、時代に翻弄された世代であるとの意識が暗雲のごとくいつも漂っていたのは、私も氏の言葉の端々から感じていた。
 先に「私は日本語で妻を罵る・・・戦後派の妻は台湾語で・・・戦後生まれの娘が中国語で・・・」といった氏の一家の笑い話のような逸話を挙げたが、ここに台湾人および台湾文学の悲運の一端があるのを、我々は見落としてはならない。
 私は台湾の日本語世代の人々が中心となり組織する「友愛グループ」の末席に連なる身だが、その会の高齢の御婦人はメールでこんな胸のうちを打ちあけてくれた。
 彼女は日本人から「日本語がお上手ですね」と褒められるたびに『冗談じゃないわ。私たち台湾人は好きでバイリンガルになったんじゃないのよ』との思いを飲み込むという。
 彼女や黄霊芝氏たち日本語世代の台湾人は、一度ならず二度もこのような言語を分断される悲しみを味わった。
 一度目は日本統治時代の半同化政策によるところの日本語教育で。二度目は太平洋戦争後、中国大陸で共産党軍に破れて台湾に亡命してきた中華民国・国民党の占領下において。
特に国民党が布(し)いた恐怖政治のもとでは、日本語の使用が厳しく禁じられ、中国語への転換を余儀無くされるという苦痛を経験した。
 後世の歴史評価がどうであれ、この二度の他国による言語の分断は歴史の真実であり、台湾人の意志と感情に反した行為であったのは紛れもない事実だ。
 人は教養と経験知で哲学をもつ。
黄霊芝氏の「時代」への憂いと無念さはこの経験知からきている。

 最初の分断で、ようやく日本語を日常の工具(ツール)にまで使いこなせるようになった台湾人は、戦前には日本語を使っての台湾文学を芽吹かせるにまで漕ぎつけた。
 それが二度目の分断により、せっかく芽吹き始めた芽が踏みにじられたばかりでなく、葬り去られようとしたのだ。
この時期、頭角を現し始めた作家たちは日本語による作品を発表・展開できず、失意のうちに文学への情熱を奪われていった。その無念さを氏は肌で感じ、胸が潰れる思いで見てきたはずだ。それは台湾の文学史上“失われた十年”の暗黒時代への無念さでもあった。
 誰が悪いのでもない、この「時代」という得体の知れない化物、時に欲望につき動かされ、時になすすべもない「国家」という化物、それによって右往左往させられる民衆の弱さを氏の鋭い感性は、諦めとため息をもって自己の哲学に昇華した。
 氏に残されたものは、誰にも邪魔されることなく、揺るぎない形で心にとどめ置くに値した自己表現の工具(ツール)=日本語だけであったのだろう。
 氏は生涯、「国家」の恒久を信じなかった。国や為政者の滅びを見てきた人の哲学であり、余人が口を挟む余地はない。
 黄霊芝氏が「親日派」でも「親台派」でもなく、「私は“親日本語派”だ」と言ったのは、そういうことだと私は解釈している。

 ・光(こう)復(ふく)をしたかと問はれ嗤(わら)ひ合う   霊芝

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