【遥かなり台湾】「第三高女とある告別式」(下)

【遥かなり台湾】「第三高女とある告別式」(下) 

  メルマガ「遥かなり台湾」より転載

                            

  日本と台湾の架け橋になる会 世話人 喜早天

前回は第三高女21期生による恩師の告別式を取り仕切った様子を紹介しましたが、今回はそれでは
第三高女とはどんな学校だったのかを作者の大倉喜代司さんが下記のように記しています。

●第三高女とある告別式(下)
3 ところで、第三高女というのは、一体どんな女学校だったのだろう。統治者たる台湾総督府の
当時の教育政策は、台湾人にも広く教育の機会を与えるものだった。その点は褒められることだが、
現実には差別があったことは否めない。台湾人児童のために小学校に代わる公学校を作ったのは、
本来日本語の不自由な学童のためとすれば差別とは言えないだろうが、高等教育は師範や医学、
農学等にしぼられ、将来直接行政に関係する法律、政治系は制限されていた。日本でも台湾出身
の医者が多いのはこうした背景からだ。当時の台北には女学校が三校あった。

 第一、第二高女は本来日本人子女のためのもので、ごく例外的に台湾人生徒を入れるだけだった。
だが、第三高女は台湾人のためのもので、全島から選び抜かれた優秀な生徒が集まり、台湾人令嬢達に
とっては憧れの学び舎だった。今でも第三高女の出身者は、政治、社会、教育、芸術等の分野で重きを
成しており、政府要人や財界の大立て者の夫人として活躍している人が多い。同校は1897年(明治30年) 、
台湾総督府国語学校第一付属学校「女子分教場」として設立され、1922年台北州立第三高等女学校と
改称された。当時の写真を見ると、信じられない程堂々とした三階建ての校舎である。終戦後の1945年
には、日本の手を離れて省立台北第二女子中学と校名が変わり、当然ながら日本語での教育は消滅した。
現在では台北市立中山女子中学となっているが、一貫して評価の高いエリート校で、誇り高き往年の
第三高女の伝統は脈々と継承されている。

  初めてこの人達と会った時には、正直なところ戸惑いを感じた。日本人ではないのにひどく日本人
的なのだ。同窓生の結びつきが羨ましい程強くて、彼女達同士で話す言葉は日本語である。国語(北京語)
でもなく、家庭で日常話している台湾語でもない。日本語でなければ、懐かしい女学生時代の思い出に回
帰することができないとでも思っているのだろうか。それとも同窓生の顔を見ると、自然に日本語が口を
ついて出るのだろうか。彼女達の多くは、卒業後さらに上級学校に進学したり、留学したりしている。
なのに何故今も第三高女なのか。おそらく教師に恵まれ、校風も素晴らしかったのだろう。彼女達の話に
登場する先生達は、人間味に溢れ、理想に燃えた教師像に昇華されている。政府の方針がどうであれ、
現場の教師達は情熱をもって台湾人の教育に当たったようだ。

だから、スパルタ教育でビンタを見舞った先生も、いまだに生徒から慕われている。「ビンタを受ける時
には、ぐっと奥歯を噛み締めて、ビンタと同時に心の中でエィッと気合いを入れれば平気です」などという
言葉が、この優しいレディー達の口から出るのも妙な気持ちである。彼女達は日本人として厳しく躾られた。
戦時中だから勤労奉仕や軍事訓練があったが、情操教育もしっかり受けた。女性としてのお作法はもとより
、生け花や裁縫も習ったし、正月には”かるた取り”もした。時には和服でお澄ましする夢多き乙女達だった。
その意味では戦時下の内地の娘達よりも恵まれた日本教育を受けていたと言えるのかもしれない。こうして
教育された第三高女の卒業生は、いずれも良妻賢母の典型であるが、それぞれが個性的でもある。あの日
飛び込んで来たおばさん達も、蔡さんはちょっぴりおきゃんな行動派だが、徐さん、林さんはおっとりした
慎重派である。話す調子も片やシャキシャキ、片や山の手の奥様風とまるで違う。彼女達の日本語は、古き
よき時代の古典的標準語で、文章は旧仮名遣いだから、日本の現状からは何となくずれを感じる。それが気に
入らないようで「今の日本語は一体なんでしょうねぇ」と若者の言葉の乱れを嘆く。

第三高女の中でも、彼女達は”花の21期生”と呼ばれる才媛達だが、同窓会の文集までが全部日本語で
書かれている。日本語で書くことが少しも苦痛でなく、寧ろ中国語で書くより易しいのだろう 。日本の
女子高生に見せたいような見事な文章である。
      仰ぎ見る誉れいや高きわが母校
            姿かわれどなほ懐かしや

      夜な夜なに目覚めし我は亡き吾娘の
            笑顔しのびて涙あふるる

     あと二分待たず行きたる乙女ごの
           その未来までわびしみており
  これらも彼女達の最近の作である。よき時代の日本的教養と精神構造がなせる短歌と言えよう。
告別式の見事な日本語の斉唱には正直驚かされたが、彼女達の愛唱歌もまた昔を引きずっている
。聞けば好きな歌は「荒城の月」「浜辺の歌」「からたちの花」であり、「花」「宵待草」「初恋」
「椰子の実」「さくら貝の歌」「夏は来ぬ」であり、童謡も「カナリヤ」「花嫁人形」「赤とんぼ」
「叱られて」と、我々ですらもう遠くなった世界へ無限に広がっていく。「今日のよき日は大君の」
 (天長節)や「雲に聳ゆる高千穂の」(紀元節)などを、彼女達のように今も歌える日本人が果たして
何人いるのだろうか。この可愛いおばさん達は、もう日本と縁が切れて数十年、よくも若き日々の
くさぐさを忘れないものと感心しないではおれない。

 曽て同じように日本帝国の支配を受けた台湾と朝鮮半島であるが、一般論として両地における対日
感情は相当に違う。その理由として、台湾統治者と朝鮮統治者の経験の差や在留日本人の資質、人柄の
違いを挙げる者がいる一方で、被統治者側の 民族性の差異を強調する者もいる。それぞれが一面の
真理であろう。だが、台湾統 治の日本人が産業振興、環境衛生の整備、教育普及の面で極めて有能で
あったとしても、温情的、人道的であったと自負するのは、統治者側の傲慢な論理である。如何に
よかれと思って民生向上に励んだつもりでも、被統治者側の目には、鬱陶しく欺瞞的なものとして映るに
違いない。終戦直後の台湾で、日本統治の呪縛を解かれた民衆が無上の解放感を味わい、これから自分達の
世界が来ると歓喜したのは、紛れもない事実である(尤も犬の日本人が去って、すぐに豚の中国人が来る
事態になろうとは夢にも思わなかっただろうが)

日本語教育にしても、台湾人も朝鮮人も統治時代は同じように強制された筈だが 、戦後の対応は全く
異なるものがある。韓国では政府の方針で日本語を話すことが憚られる(プライベートな場は別として)のに、
台湾では民衆がおおっぴらで話す。外省人が天下を掌握していた蒋王朝時代は、日本文化を忌避し、日本
映画も輸入禁止であったが、したたかな台湾人はこっそり映画やビデオを密輸して金儲けに利用していた。
需要は幾らでもあるのだ。紅白歌合戦のビデオも、翌日にはちゃっかりと闇喫茶で上映され、多くの台湾
人が息を凝らして見ていた。本省人の李登輝総統の時代になると、それが一層おおっぴらになった。李総
統自身も、日本人の賓客とは通訳を使わずに流暢な日本語で話す。

台湾の日本語世代の人々は、日本人と見れば当然の如くに日本語になる。彼等との宴会ではすべて日本語
だから気が楽である。昔話になれば「修身」が出てきたり、「二宮金次郎」や「葉隠れ」も登場する。
酒が廻ると「よし、今日は天皇の名前を暗誦しようや」「よし、やろう」となり、「神武、綏靖、安寧、
懿徳、孝照—- 」と暗誦が始まる。列席の日本人は仁徳天皇あたりで詰まってしまうので、「なんだ
、だらしがない。それでも日本人か」と馬鹿にされる。戦前の台湾人教育は、今では想像もつかぬ程濃
縮されたものだったようだ。戦時中は多くの台湾人も帝国軍人として徴兵され、3万人もの名誉の戦死
者を出した。恨みつらみや嫌な思い出が当然ある筈だ。だが彼等の日台合同戦友会では、恩讐を越えて
軍歌の大合唱となるのではらはらする。良きにつけ悪しきにつけ、彼等の青春は日本時代に繋っている
 のだ。これらの人達も老いてきた。あと20年もすれば間違いなく絶滅する。この地球上で、日本以外の
国(地)にあって、日本の心を日本語で解する人々が存在するというのは、まことに心強いことである。
そんな国を、もし今から地球上のどこかに一つ創り出すとしたら、少なくとも半世紀の歳月と、天文学的に
巨額な金が必要となろう。況してや統治者としての強制力のない現在では、100年、いや200年かかっても
できない相談かもしれない。そう考えると、すでにその域に達している台湾の人達の存在は貴重であり、
大切な友人として扱うべきだろう。「とんでもない。友人ではなく親戚よ」と第三高女のおばさん達なら
言うかもしれない。彼女達が自分の娘を日本に留学させたいという願いも、過去の絆と自分の思いを我が
子に託す姿に見える。そんな一途な思いのわりに、日本の朝野が断交後の台湾に冷たいというのが、遠く
なった日本への鬱屈した不満になっている。

筆者は第三高女の人達としか面識がないのでよく分からないが、こうした傾向は台湾各地にあった学校の
卒業生に共通するウェットさであるようだ。曽て甲子園を沸かせた嘉義農林で知られる嘉義の女子家政学
校卒業生の回顧談が台湾紙に載っていた。同校でもやはり戦時中は日本人として勤労奉仕があり、興亜奉
公日には日の丸弁当(梅干しだけ)で頑張った軍国乙女だったと寧ろ誇らしげに書いている。敗戦後、自分
達の先生が道端で哀れにも物売りをしている姿を見て、思わず師弟抱き合って泣いたという。皇国史観の
もとに尽忠報国教育を受けた台湾人子女が、終戦を境に一変した価値観に茫然自失したことは想像に難く
ない。さらにその彼女曰く。「戦時中も、日本人と台湾人の感情は手足のように密接に結ばれていました。
今でも同窓生は互いに連絡をとり合っており、この友情は植民地時代の最も美しい思い出として残ってい
ます。」と述懐している。日本人恩師を招待するというのは、第三高女に限らず、台湾では都市、農村を
問わずどこの学校でも見られる流行りの現象のようだ。台北第一高女、第二高女なども大同小異とは思う
が、第三高女とは少し違うような気もする。
 戦前の日本語教育を受け、日本人の心情を理解する人達は年々確実に減っている 。篠原先生の遭難で
知り合ったあの素敵なおばさん達の中にも、すでにこの世を去った人がいる。こうした人がいなくなれば、
もう心から日本を懐かしむ人はいなくなってしまう。何とかしてこの人達の日本語と日本への親近感を、
次の世代にも伝えて行ってほしいものだ。「昔こんな素敵な女性達がいた」と過去形で語らなければなら
なくなるのは寂しい。台湾を男性天国としか見ない日本人旅行者が多いが、台湾の魅力の一側面が、彼女
達や老甲子園球児達のまだ住む台湾であることに気が付く日本人は残念ながら少ない。

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