_塚本三郎元民社党委員長小論集_ _当会支部最高顧問、塚本先生世評_

田中角栄と、小沢一郎との違い 平成二十二年三月上旬    塚本三郎

 日本の政治を支配しているのは、良かれ、悪しかれ、小沢一郎だと言われている。
 民主党が議会で圧倒的多数を占めている。だが、鳩山由紀夫に総理の席を与えて、陰の党首として院政を行っている小沢は、身に一片の傷が在るから、心ならずも院政を敷きつつ在る。そのことは、政界の第一線を退かざるを得なかった師の田中角栄に似ている。
 現在の与党民主党は、小沢在っての政権党であろう。しかも、彼の政界に於ける行動力と政権内の存在価値は絶大である。それ等の点を総合的に判断してみると、田中角栄とその弟子小沢一郎は余りにも似すぎている。
 だが、似すぎている半面、余りにも大きく違っている点は何かを、検証してみることも必要である。両名に共通してみえる点、田中に教え込まれ、身に付けた小沢の力点は、
その第一は、庶民の立場に立って街頭で訴える、民主主義の原点である
その第二は、官僚を意識し、対抗の目標として、官僚行政から政治主導を貫くこと
その第三は、近隣諸国への配慮と、対米国との対等外交への展開である
これらは、現在小沢の独自の主張ではなく、田中の手法そのものの真似である。

庶民の立場とは
 田中は、田舎の土の臭いや、過疎地の感じをきちんと掴み、日の当たらない、貧しい農村から這い上がって来た経験の上に立って、議会活動を行なって来た。
 民主政治は公平な政治組織である。庶民は貧しくとも、数さえ揃えば、大都会の富める人達と対等に競うことが出来る。田中が政界に打って出た時代隣の中国は、丁度その頃、共産主義者・毛沢東が、「農村が都市を包囲」する戦略によって中国を支配していた、そのものを田中は学び、農村を支配することが、国家を支配する道と考えたに違いない。「日本列島改造論」はその第一声ではなかったか。
 小沢もまた、父の跡を継いで、東北の地、農村を歩き、街頭で、貧しさからの克服を、庶民の目線で訴えた。
 だが、田中と全く異なって、小沢は、既に父から代議士としての地盤を受け継ぎ、寒村の生活の厳しさを味わうことなく、若干二十七歳にして国会議員となったことである。それゆえ、会社へ勤務したことも、事業に携わったこともない、社会の実体に触れたことが全くなかった。田中には、中小企業の土建業者として、事業の厳しさと、経済運営のイロハを、否応なく学び身に付けて成長した。
 庶民の立場に立った政治家と自負していても、身に付けた田中の経験と、頭で学んだ小沢とは大いに異なっていた。云わば、小沢には魂が籠っていない庶民の政治である。
 政治地盤は東北地方の寒村であっても、育ちは東京生活で、最も育ちの良い坊ちゃまの学校慶應大学に学び、その後、天下の支配者田中の秘書と成っている点では、身と心とが遊離した政治とならざるを得ない。

政治主導とは
 政治主導の点が、小沢政治主張の特長である。即ち彼にとっては官僚排除の達成である。 

 これも、原点は田中の生きざまを身をもって体得したことであろう。

 吉田茂、岸信介、池田勇人、佐藤栄作等々、これ等の人達は、まばゆいばかりの、日本官僚群の最高峰に登り詰め、与党の総裁に担がれた人々である。その群像の中に伍して、田中は官僚の長所と絶大な権力に抑え込まれながら、その陰の部分を充分に体得し、やがて彼等官僚達を押し退けた、「血みどろの努力」こそ田中の戦いであったと見る。
 官僚群には経験と、歴史と、権威と、信用力と人材が積み重ねられている。それに対抗するには、排除の論理ではなく、彼等にはなかった別の能力、即ち田中には庶民性と外聞を気にしない独特の損得勘定が在った。
 民主政治は数の政治である。数の力は、必ずカネと呼ぶ実力。そして、カネは権威と権力をも兼ねていることを、身に付けているのが田中のすごさである。勿論、それには「恥と外聞」を気にしない特質も必要であった。
 官僚に対しては、排除や抑圧するのではなく、官僚の足らざる処を補うことで彼等を支え、官僚の特質と能力を自身の力へと活用することである。田中は官僚を悦ばせ、ひれ伏させる技を備えることが出来た。それはカネであり、物であり、地位と云う人事の活用でもある。政治権力が、万能の力を持っている「魔力」である。
 政治権力が、魔法の杖であることは、下からのし上がって来る間に、社会の隅々を眺めつくして来た者のみが知る味わいである。それと比べて、田中の弟子ながら小沢は、官僚を利用することよりも、排除し、権力を与えられても、彼等の使い道がわからず、ただただ、排除することに重点を置いているようにみえる。
 官僚たちは、彼の前で萎縮し、政治家の顔色を眺め、真意を見定めることに汲々としている。その結果、陰口を叩いて、憂さを晴らすことになる。

対等の対米関係とは
 米国との対等の関係を主張することは正しい。同盟とは、本来対等でなければならない。不平等ならば、支配者に対する隷属となる。安全保障に対する日米同盟は、自ずから軍事同盟となるが、日本には非武装の憲法が厳然と存在する以上、対等の攻・守同盟は成り立ち得ない。だが、その憲法を押し付けた米国は、日本の実状を承知している。
 占領政策そのままの安全保障条約を改め、「日本防衛の義務」を明記させ、その代償として、日本は基地の提供を約束したのが、岸信介による「六十年安保」と称されている。
 かつて、民社党結党時、「駐留なき安保」を我々は、提唱していた。(昭和三十五年)
 占領政策そのままに、駐留する米軍が居座っていることは、占領政策の延長そのままで独立国ではない。「一旦日本から占領軍は国外へ引き揚げよ」そして、危急の場合には、急遽救援に来て欲しいという独立国としての要求であった。
 日本にとっては、勝手の良い要求であるが、独立国として、先ず外見を整えることが不可欠であること、更に、日本周辺には、差迫って危機が存在しなかったから。
 鳩山総理は今もなお、民社党の在りし日の説を踏襲している。
 だが、三十年、五十年前の日本と、今日の日本では、事態は大きく変化している。とりわけ中国の脅威は目に余る。海洋支配の軍事力は、倍々ゲームで、軍事大国として、アジア周辺を睥睨しつつあり、台湾は勿論、尖閣諸島さえ、侵略の手を伸ばしている。
 駐留なき安保は正しい、だが、それを主張するならば、日本が独立国家として、当然それに対応すべき「防衛力の確たる整備」を構えてからの発言でなければならない。
 日本列島は日本自身の責任で防衛する。他国の侵略は断じて許さない。それを実行して後に、米国よ、安心して駐留米軍はグアムに引いて下さいと、約束すべきだ。
 小沢、鳩山両氏の「国家観なき発言」の真意は計りかねる。外見のみからすれば、中国・韓国への媚を重ねる一方、米国へは、距離を広げることが、小沢の言う対等なのか。
 それをしも友愛外交と呼ぶのか。日本にとっては、中国や韓国とは、如何にして、友好、友愛を保つのかは永遠の課題である。ゆえに小沢、鳩山両氏の手法を非難するつもりはない。だがそれを強調するならば、相手方と対立している、領土問題をはじめ、実状に対応しての、必要手段が抜け落ちている。否、わざわざ抜いているやにみえる。
 米国との関係は、日本自身の自力の防衛力と、それを補完する為に結んでいる日米同盟である。米国は、日米同盟と、安全保障維持の為に、莫大な負担を背負っている。目下、米軍並みの防衛力を、日本が自力で負担するとすれば、恐らくGDPの一%以下ではなく、二%以上の負担とならざるを得ない。
 日米同盟は、即、アジア全体の民主主義擁護の為のトリデでもある。ゆえに、日本一国の平和だけで、米軍の沖縄駐留の是非を論ずるのは、近視眼的である。日本は、アジアの大国としての自負心と責任を自覚しなければならない。

鳩山政権の果たした意義
 自民党を倒して、「政権交代」を実現した鳩山、小沢の民主党政権は、半年を経た今日、見るも哀れな不信を呈しており、その姿は、選挙の直後には想像出来なかった。それでも、権力に恋々とする自民党に代って、新しい時代の幕を開けたことは、大いに価値が在った。
 そして次々と新政策を、打ち上げたその熱意は多とすべきだ。民主党が、堂々と公約を掲げた点では、日本の新しい時代の幕開けを期待した。「政治指導」と呼ぶ官僚政治の打破は、当然の如く庶民から大きな拍手を浴びた。
 批判家は云う「出来もしないことを堂々と言うのは、馬鹿か詐欺」だと。それでもマニフェストで言い切った点は、余程の決意と責任を負う覚悟が在ったであろう。
 明治維新や、敗戦直後など、かつての先輩は、新しい時代を目指して、多くの若い志士達が身命を捧げて日本を発展せしめた。小沢や鳩山も、新しい時代の口火を切った。
 あとは、それに値する政治家を育てるべきだ、自分達の仲間のみで、権力と財力を手に入れようとする魂胆がすべてを台無しにする。新しい幕を開けたから、それで充分だ。
 自分達が、その後の担い手ではない。次の時代の人達の下積みに甘んじて、表に出なくて良い。出来れば、直ちにこのまま引退したいと二人は決断して欲しい。その代り、前の自民党政治への後戻りだけは、してくれるなと言ったらどうか。
 昨年夏の衆議院選挙で圧勝した民主党は、僅か半年後の今日、見るも哀れな失政の連続で、鳩山総理も、小沢幹事長も、国民から憎しみの罵声を浴びていることを知っているはずだ。民主党への政権交代の実現は、単なる悪夢であったのか。まぼろしに終わるのか?
 民主党の若い国会議員達には、日本を背負って立つ人材も、育てれば価値の在る逸材も少なくない。それなのに、民主党のトップの二人に対して、今日の混乱を黙視するのは如何にも卑怯である。彼等トップ二人の指導者には、国家観が無かった。若者には、そのことを指摘する勇気が必要だ。田中角栄がかつて政治生命を懸けた如き国家観を取り戻せ。
 庶民の為の政策が単なる迎合となり、脱官僚が偏見となり、近隣諸国への友愛が、国家解体の売国、亡国政権とみられているではないか。
 民主党に期待した多くの国民は、絶望の淵に沈みつつある。民主党の若い議員達は、なぜ黙して声を出さないのだ。

PDFはこちらをクリック