_塚本三郎元民社党委員長小論集_ _当会支部最高顧問、塚本先生世評_


 お灸を据えられるのは国民  
平成二十一年九月上旬    塚本三郎

政治腐敗の根

 今回の選挙は、四年前の、小泉チルドレンの勝利の裏返しであり自民党の政治腐敗の結果である。

 選挙結果は、民主党の理念と政策に、国民が共鳴した結果の勝利ではない。三十一日の新聞各紙は、不信「自公アウト」、民主「勝因は自公不信」、「相手の自壊作用に助けられた」等々、見出しはすべて、民主が良いからの勝利ではない。

「民主党なら誰でもいい」、「自民党でなければ誰でもいい」。

候補者の政治能力は、全く関係ない。投票直前まではこんな風潮だった。

 政治家には、内政だけではなく、外交にも、教育にも、優れた学識と決断力と指導力が国の代表者には期待されている。

 だからこそ、国会議員には、我々の税金が、年間、一人約一億円が注入されている。国会の選挙には、我々の税金、年間約一億円を「誰に渡すか」の一票でもある。

 勿論国会議員は、我々国民の代表であり、代弁者である、それに値する党と人に投票しているか否か。

 国会議員の場合、一度やらせてみよう、と思って投票し当選すれば、参議院は六年間、衆議院ならば、長ければ四年間である。一度やらせてダメならば、辞めさせればいいと云っても、右の如く、年間一億円を、四年、或いは六年間続けて支出するのである。

 国の税金と云っても、我々が納めているのだ。

 面白い人、美人だから、若さが在るから、知名度があって当選の近道だから、等で選べば、国会に「政治が亡くなる」のは当り前ではないか。

 それでも、テレビは「有権者におもね」て、大衆の前にクローズアップさせる。視聴率さえ稼げば良いとの考え方は、国政を何と心得ているのか。それにも増して問題なのはテレビに出演することが、それ自体、強力な選挙活動になるから、議員の中でもテレビに出たがる人が多い。そして、大衆におもねる発言を繰り返す。

 日本人の殆どが義務教育を受け、世界最高水準の識字率、半数が大学進学の教育を受け、新聞もテレビも自由に見られる社会が日本である。それなのに、なぜこんなマスコミに左右させられるのか。もともとそれが民主政治の宿命か。

 今回の選挙では「自民党へのうっぷん晴らし」とか「自民党にお灸を据える」と、国民が高所から、候補者を見下すような態度にみえて仕方がなかった。そして自分の手で、自民党を政権から引き摺り下ろしたが、民主党政権が出来れば、「お灸を据えられるのは国民」の方となったらどうしよう。

 「政治腐敗は有権者の腐敗」と言ったのは、評論家・美齢である。

因果はめぐる

第二次世界大戦に敗れたドイツは、ナチスが悪い、ヒトラーが悪いと、全ての責任をナチスのみに負わせ、国民のすべては、被害者ヅラをして逃げ、今日に至っている。

ナチスのヒトラーは、第一次世界大戦以来、迫害を耐え抜いた「国民の心情」を背景に、圧倒的多数の支持によって、ワイマール憲法下成立した政権であった。

やがて、それ往けドンドンと太鼓を打ち鳴らし、全ヨーロッパを荒らし回ったことを、ドイツ国民は、忘れていないはずだ。

 同じ同盟国日本は、焦土と化し、占領軍によって時の指導者は、戦犯として裁かれて獄門台の露と消された。民間の指導者も、公職追放で数万の人達が一掃された。

 その上、悪いのは軍部だ、軍の暴走さえなければ戦争も、敗戦も無かったと、小学生でもわかるような、単純な逃げの弁明を重ね、ゆえに、その犠牲者を祀る靖国神社まで遠ざけている。

その言い逃れを逆利用して圧力をかけているのが、共産系の諸国であり、それに追随する左がかった日本国民であるから、未だに非武装の憲法が改められない。

 その時、石原莞爾は、一番悪いのは、それ等の軍政を認め、改めさせなかったのは、われわれ日本国民である、まず一億国民自身が、総ザンゲすることから始めよう、軍をして、それを許したのは国民自身である、と正直に、しかも勇気をもって語った。

また、日本の侵略は、満洲事変から始まったと占領軍が云うならば、満洲事変を起した張本人は俺だ、「なぜ俺を東京裁判に呼ばないのだ」と、逆に占領軍に喧嘩を吹っかけている。「俺に真実を話されることが、そんなにこわいのか」とまで云っている。

内に向っては、徹頭徹尾自省し、謙虚であれと説く石原莞爾が、国家と国民の立場に立って。強者たる占領軍に対しては、殊更に強硬な自衛の論を繰り返した。

彼は、敗戦直後の全国民に、自信と勇気を与えることの必要を痛感して、かつ指導者の腰抜け的態度を意識しての言動とみる。

今回の衆議院選は、小泉政権時代の裏返しともみえる、自民党への逆風に対して、一体、今迄の自信に満ちた自民党は、どこへ消えてしまったのか。

 有権者に対して謙虚であるのはよい。されど今日までの自民党政権の果たして来た役割は何だったのか。自民党員は奢りを反省すると共に、再起の為の勇気を持て。

ミスを恐れるな 

台湾にはこういう言葉がある。「たくさん仕事をすればたくさんミスをする。少し仕事をすれば少しミスをする。何もしなければミスもしない」と、さきの金美齢は云う。

 政権を担当していない野党に、表立った政策のミスが少ないのは当り前の話しである。

 失われた二十年といわれ、日本の国力はすでに衰退し始めている。国際社会の中で、日本が、どのように自分たちの存在を維持していくのかが、これからますます重要になる。

圧倒的な支持をうけ政権政党となり、国民に対し、すべての責任的立場になった民主党は、防衛力を強化する自信と勇気を持つべきだ。今日まで、独立国家として不可欠の自衛力さえ、党内で議論して来なかったではないか。議論することさえ出来なかったとみる。

 国際貢献としての、インド洋や、ソマリア沖への自衛艦の派遣さえ、引き返すと公約しているが、それで、大切な日本産業の生命であるタンカーのルートはどうして守るのか。また国連中心主義の外交と言うが、国際貢献はお金だけでよいのか。

 日米同盟の強化を前首相が約束をしたのは、つい一カ月前のことであった。麻生内閣にとって代った鳩山内閣は、全く違った立場で、アメリカに納得してもらうと云うが、自信があるのか。外交は、政権交代の度に一八〇度変わっても平気なのか。権力の継続性を忘れたのか。日米同盟を空洞にするならば、アメリカが居なくとも、我々は独立国だから、アメリカに頼ることなしに、それ以上に、強固な独立自存の為の自衛隊として、質、量共に防衛力を強化すると、公言する勇気と実行力があるのか。

 日本を取り巻く、周辺国の軍事力の増大と脅威を知らないはずはなかろう。

保守的装いの勝利

思えば、鳩山も沢も、そして岡田も羽田も渡辺も、民主党幹部はみな、かつては自民党田中派に所属した国会議員たちであった。

 十六年前、それぞれ自民党を飛び出し、ようやくその悲願を達成しようとしている。しかし、結局、民主党への期待とは何だったのか。

 マニフェストをみる限り、自民党への回帰であり、より大衆への迎合政治ばかりである。その上、自民党より以上に国家観が脱落している。

 心配なのは、マニフェストにのせない「極左思想の隠蔽」である。

 前回の選挙の争点は「郵政の民営化」であった。今回は「政権の交代」と云う言葉のみが踊っていた。交代して大衆迎合を正直に進めて、日本国家財政をより貧困に導くのか。それともマニフェストにはかくしておいた(民主党政策集INDEX二〇〇九)にまとめられた「左翼の政策と真意」を実施するつもりなのか。この政策の基本を実行して、日本を更に左傾化し、弱小化させるつもりなのか。

 自民党が、余りにもだらしがないから、今回の選挙は従来の支持者が、反省を求めるため、戒めのお灸を据える為の政権交代であった。

 民主党にとっては、自分達の支持者と共に、自民党支持者の票を奪い取るためには、自民党支持者の反発する政策は表面に出したら損だ、だから民主党の政策集の、独自の部分は、マニフェストにはかくして出さなかった。

 正直に党の真意を公表すれば、「左翼集団」として、「反日政党」として目立つ部分が露出すれば、民主党より左のは共鳴してくれても、自民党支持者は眼をそむけたであろう。

ゆえに、今度の民主党は、政策かくしの巧妙な選挙戦の勝利とみる。その不正が、結果として、本心を表面化させることが出来なくなり、ことのなりゆき上、日本の置かれた現状を悟り、無責任な政策だと気付いて「本をすててくれれば」、国家として悦ぶべきことである。その主なマニフェストに出さなかった政策は、外国人参政権、選択的夫婦別姓、元慰安婦への補償、靖国神社に替わる国立追悼施設建立。等々、国論を二分する問題は、自民党支持票をアテにして、敢えて不正直にマニフェストに出さなかった。

また「教育の中立性は在り得ない」と叫び続ける、元日教組委員長が、民主党の教育責任者から、今度は担当大臣になって、「日の丸」掲揚と、「国歌の斉唱」反対を決められたならば、日本の教育はどうなるか心配だ。

民主党を牽引する小沢、鳩山、岡田の三人は揃って、自民党経会(竹下派)の洗礼を受けた政治家である。民主党の保守派だ、との安心感を抱かせている。だから、自民党に見切りをつけた「保守の受け皿」として、自民党支持層の票が民主党に流れた。

けれども、民主党内の保守層は、余りにも控え目である。反対にリベラルを自負する層は、貪欲である。

民主党が、そのままリベラル、つまり左翼の政策に引っ張られかねないことを危惧する。民主党はマニフェストには出さなかった政策は、野党に帰るまでは、大切に温存して表面に出さず、しまっておくべきだ。そして有権者に公約したマニフェスト通り、正直に政策を実行してくれることを期待して止まない。