第13回台湾李登輝学校研修団レポート(中)

第13回台湾李登輝学校研修団レポート(中)
事務局 佐藤和代

■第2日目 5月7日(金) 雨の台湾高砂義勇隊戦歿英霊紀念碑に参拝

薄曇りのこの日は朝8時半にホテルを出て、9時からの講義を受けに会場に向かいました。この日の予定は午前中に2つの講義を受け、昼食後には烏来の「台湾高砂義勇隊戦歿英霊紀念碑」(通称:高砂義勇隊記念碑)へ参拝し、その足で台南に向かうという強行軍。
この日最初の講義は、呉明義先生(国立東華大学民族学院語伝系兼任教授)の「台湾原住民の歴史」でした。呉先生は前回の研修団から2回目の講義となります。
詳しい資料も配布され、台湾原住民の発祥地説、原住民の分布、略史、そして今日の課題へと話は進みました。発祥地説は海外発祥説、大陸発祥説、本地発祥説があること。略史では、オランダの統治以来キリスト教の多大な影響を受けたこと、日本とは統治以前から貿易でのつながりもあったことなどをお話しいただきました。
盛り沢山の内容で時間が足りないくらいでしたが、最後に台湾原住民の今日の課題として、正名権の問題、言語文化権の問題、土地権の問題、八八水災被災地の再建問題、憂えざるを得ない国の前途などを挙げられました。
講義中も時々自然に日本の歌を口ずさまれた先生にはやはりアミ族であることを感じました。突然かかってきたお兄様からの電話には、普通に日本語で応対するなど、生活の中に日本が息づいているご様子と拝見しました。
次の講義は鄭清文先生(作家)の「台湾の文学」です。文学とは、時の政府の政策によりその方向性を決められるものでもありますが、また逆に、その歴史的事実を後世に伝えるものでもあるようです。
鄭先生によると、台湾文学は一言でいうと植民地文学であり、その特色は1)郷土、2)写実、3)抵抗、4)歴史、です。つまり抵抗の歴史の事実を写実的に、自分たちがよく知っている郷土の生活を通して書かれたものであるということです。
中国文学は古典に偏重したもので、現代とマッチしないものだそうで、文章の文学でしかなく、その例を具体的作品を幾つか紹介されながら説明されました。愛情に欠け、事実が平面的で奥行き・深みのないものと断じられました。
講義後、参加者からの質問は多岐に亘り、台湾文学と政治、ロシア文学やイギリス文学との比較について、台湾文学の文字表記の問題から、発音記号にまで話が及びました。一つ質問が出るたびに、研修団全体で考えたり意見が出たりと、まさに学ぶことの一体感がありました。
午後は高砂義勇隊記念碑に向かいました。バスの中では柚原事務局長より記念碑にまつわる話を伺いました。高砂義勇隊とは、大東亜戦争中に日本軍として戦った高砂族の部隊。一時は撤去の危機にも晒された記念碑でしたが、産経新聞等の呼びかけで義捐金が集められ、なんとか守り抜くことが出来たこと。その後も撤去の危機があったが、裁判では烏来郷高砂義勇隊紀念協会理事長だった故簡福源さんのご奮闘もあり、守られた。靖国神社の故南部利昭宮司も訪れたことがあったこと等のお話を伺いました。
バスに揺られること1時間半で記念碑の下に到着。この日の烏来は涙雨。参加者は傘をさしながらの参拝となりました。上り坂を5分ほど行くと、綺麗に整備された記念碑の公園が見えてきます。本年春に公園が完成し、研修団としても初めて整備された公園に来ることが出来ました。高砂義勇兵の像の下にある李登輝元総統の揮毫となる「霊安故郷」の碑文も拝見できました。
台湾で醸造されている「玉泉」という日本酒と花束を碑前に捧げ、そこで服部団長より切々と胸に迫る祭文が奏上されました。この碑を守る「烏来郷高砂義勇隊紀念協会」の周萬吉・会長代理と、碑を建立された故周麗梅さんのご長男の馬偕理牧(マカイ・リムイ)同会総幹事の両氏よりご挨拶を頂戴し、最後に記念碑の前で研修団全員で記念撮影、碑を後にしました。
次に一行は台南へ向かう新幹線に乗るため、台北駅へと向かいました。ところが、バスが渋滞に引掛かり、間に合いそうにありません。そこで、急遽バスを降り「新店」駅でMRTに乗り換え、午後6時6分発の新幹線に滑り込みセーフ。ハラハラドキドキのハプニングで、まさに強行軍でしたが、同行していただいた勝美旅行社の李太太こと黄麗華さんと、研修団スタッフの片木裕一理事の機転に救われました。
日も暮れ、台南に着いたのは夜の7時49分。一行が宿泊するホテルに到着したのは9時になっていました。それから就寝までの自由時間をそれぞれ楽しみました。

■第3日目 5月8日(土) 八田與一の墓前祭に初参列

八田與一技師は昭和17年(1942年)5月8日に亡くなられていますので、今年で68回目となる命日のこの日、烏山頭ダムで一日野外研修です。
烏山頭ダムを造成し、不毛の地だった嘉南平野に水を供給することで台湾最大の穀倉地帯に変えたのが日本人技師、八田與一です。
この日は午後より八田與一の墓前での慰霊祭が行われ、我が研修団一行も参加する予定が組まれています。お天気に恵まれ、暑いくらいの陽気です。8時45分にホテルを出発。1時間弱で烏山頭ダムに着き、八田與一記念館を見学。八田技師とダムに関するDVDを鑑賞。
その後、ダムの堤防についた階段を登って「殉工碑」に参拝しました。この碑の周囲には、このダム工事のために亡くなった日本人と台湾人134名の名前が亡くなられた順に刻まれています。八田技師はダムが完成した直後の昭和5年(1930年)3月にこの殉工碑を建立しており、八田技師の細やかな思いが現れているようで、こんなところからも台南の人々が今でも八田技師を尊敬する理由が分かるような気がしました。
そこからさらに堤防の階段を上ると視界が一気に開け、珊瑚潭と呼ばれるダムを眺めることができました。そこからさらに歩を進めていくと、やがて八田與一の銅像が見えてきます。慰霊祭の準備が着々と進められており、紅白のテントが張られ、八田像の周りにも花が沢山飾られています。
一行は八田像の周りに集まり、記念撮影をしました。八田技師もこの賑やかさに驚いたかもしれません。
 さて、この日は折しも烏山頭ダムの世界遺産登録を目指す運動の記者会見が午前11時半より予定されていました。慰霊祭の場所から近いホテル内に会場があります。一行もその会場に入りました。ビデオカメラの設置もOK、記者会見を待つばかり。予定時間を少し回って、記者会見は始まりました。
最初は台湾側で推進するグループの方々が説明。日本側からは元皇族で慶応大学講師の竹田恒泰氏が台南文化観光大使としてのお立場からこの運動を支持されました。竹田氏は「台湾で最も知られる日本人の八田與一技師を日本人はもっと知るべき。烏山頭ダムが世界遺産登録されると、日本と台湾が非常に良い関係を築けるだろう。文化観光大使を拝命した私も、日本政府に積極的に働き掛ける最大限の努力をします」と挨拶されました。
次に柚原事務局長の挨拶に移りました。柚原氏からは、今回研修団40名で訪れたこと、八田與一技師のことは映画「パッテンライ!!」や絵本、教科書でも教えられるようになったことを説明されました。そして「八田與一とこの烏山頭ダムは日台共栄のシンボルであると考え、このダムの世界遺産登録へ向けての署名活動に最大限努力します」と宣言しました。
正午を回り丁度お昼時になりました。一行は会場近くのレストランで昼食をとりました。午後2時からの慰霊祭に参加し、他団体と一緒に献花も出来るとのことです。気温は30度を超えたようで、熱中症に気を付けながらの参加となりました。
 慰霊祭は午後2時から4時半ころまで続くとのこと。我が一行は3時頃までの参加となりました。テントの中にはすでに沢山の参加者の方々が椅子に座って待っています。八田像の前には祭壇が置かれ、パイナップルやバナナその他の果物と沢山の花が活けられています。
墓前祭では3人の尼僧による読経が暫く続き、来賓の方々の紹介、関係者や関係団体による献花、焼香が行われました。金沢市から「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」(中川外司団長)も参加されていました。
馬英九総統代理の頼峰偉総統府副秘書長は「八田與一氏の功績と精神は台湾で永遠に伝わっていくと信じている」と挨拶されました。日本からは八田技師ご長男の故八田晃夫氏夫人の八田綾子さんも参加され、地元出身の教師と教え子の小学生らが作った烏山頭ダムの絵本が贈呈されました。研修団一行も午後3時頃に無事献花することが出来、思い出に残る参拝となりました。
一行は早々にバスに乗り込み、新幹線に乗るため嘉義駅に向かいました。今度は時間に余裕があり、駅構内で少し喉を潤したり買い物をしたりした後、午後5時36分発の新幹線に乗りました。車内でお弁当を食べ、午後7時には台北駅に到着。ここで一旦解散となり、しばしの自由時間を楽しみ各自ホテルへ帰りました。

(つづく)

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