石平著『私は「毛主席の小戦士」だった』を読んで[石川公弘]

石平著『私は「毛主席の小戦士」だった』を読んで[石川公弘]
中国出身の学者で『「日中友好」は日本を滅ぼす』など、中国批判で知られる石平(せ
き へい)氏が最近、『私は「毛主席の小戦士」だった−ある中国人哲学者の告白』を上
梓した。
 執筆の動機は、これまでの言論活動に対して「反中国政府・親日の立場を取っているの
は、何か隠された目的があるからではないか」とか「中国の悪口を言っているのは祖国の
裏切り者ではないか」といった、不審と不信の声が聞こえてくるようになり、「ならばい
っそのこと、自分が『反中国・親日』の立場に立つに至った心の遍歴や、そういった言論
活動を展開しなければならない理由などについて、胸の内を正直に告白する本を書くべき
ではないかと思ったのである」(まえがき)と自らつづっている。
 日本人でもなかなか書けない流麗と言っても過言でない筆致は、確かに読ませる。中国
人が失ってしまった「論語」の精神や礼節が日本に息づいていたことに気づくまでの魂の
遍歴と言ってよい。
 本会理事で石川台湾問題研究所所長の石川公弘氏(神奈川李登輝友の会支部長)がブロ
グ「台湾春秋」において、10月5日から9日まで、5回にわたって本書の内容を紹介している
。石川理事はそれぞれにタイトルを付して掲載しているが、ここでは「私は中国共産党と
完全に決別した」と題された最初の10月5日分をご紹介したい。続きはブログ「台湾春秋」
をご覧ください。

●台湾春秋 http://blogs.yahoo.co.jp/kim123hiro/archive/2006/10/5

■『私は「毛主席の小戦士」だった−ある中国人哲学者の告白』
■石 平
■飛鳥新社(2006年10月、四六判上製、224ページ)
■1,575円(税込)

 http://www.boople.com/bst/BPdispatch?isbn_cd=4870317613


私は中国共産党と完全に決別した
                       石川台湾問題研究所所長 石川 公弘

 中国人知日派の第一人者・石平氏が、『私は「毛主席の小戦士」だった』という本を飛
鳥新社から出版した。祖国中国と、第二の故郷となった日本とが、彼の人生に与えた影響
を描いて見事だ。中国現代正史でもあり、優れた日本文化論でもある。

 本書は、中国問題に関心をもつ人間の必読書と思うが、あえて各章ごとに要約しコメン
トしたい。第1章は、「われら“天安門世代”の精神的履歴書」。

 「中国には今でも“80年代の大学生”という言葉がある。私が北京大学へ入学したのは
、ちょうど1980年だった。1980年から1989年の天安門事件までの10年間、中国の大学のキ
ャンパスは、自由や民主のスローガンにあふれ、学生は民主国家建設を熱く語っていた。

 しかし、物心ついた子供時代から、受けた教育は、全く逆のものだった。私たちは取巻
く全ての組織と人から、共産主義は全人類の最も素晴しい思想だと、信じ込まされていた。

 中学校は、学校全体が“毛主席”一色だった。毛沢東語録の看板があふれ、音楽の授業
は毛主席讃歌。そんな教育を受けて私は、自然と“毛主席の忠実は小戦士”になっていた。

 大学へ入学した1980年に、!)小平の“改革開放”路線が始まった。!)小平は政治の実権
を握ると、毛沢東路線の“過ち”を暴露し、徹底的に批判した。しかし、“過ちだが罪で
はない”と、最後の一線で毛沢東を庇った。

 毛沢東の完全否定は、共産党政権の否定に繋がるからである。だが、私の進学した北京
大学には、毛沢東時代に迫害を受けた知識人の子弟が多く、それにあきたらない空気があ
った。私のような田舎育ちの“小戦士”にとって、驚天動地の世界だった。

 毛沢東の罪は、独裁権力を守るためには、国家の安定や国民の幸福など、全く眼中にな
いことだった。政治闘争における自らの立場を守るために、飢饉をいっそう加速させる誤
った経済政策を強行して、数千万人の餓死者を出したことを、初めて知った。

 威信を失った毛沢東が、一大博打に出たのが文化大革命で、10年にわたり大きな苦しみ
を中国人民に与えた。ある都市では数千人が、一夜にして反革命分子とされ、全員生き埋
めにされたことも知った。

 毛沢東の真実を知ったのは、人生最大のショックだった。しかし、示される根拠はあま
りにも説得力があった。そこで気づいたのは、毛沢東も悪だが、それを可能にした共産党
独裁体制こそ悪だということだった。その変革なくして祖国中国に光明はない。

 卒業後、故郷の大学の助手になった。民主主義啓蒙の絶好の機会だった。しかし、民主
化を理解していた胡耀邦党総書記が解任され、運動は大打撃を受けた。そんな時、留学を
勧める手紙が日本から来て心が動いた。実際の民主国家を自分の目で見たかった。

 日本へ来たのは1988年。神戸大大学院のゼミが始まった日に、胡耀邦が死去した。彼の
死をきっかけに低調だった国内の民主化運動が蘇った。やがて1989年6月4日、あの運命の
日がやってきた。多くの同志たちが、人民解放軍の戦車の下敷きになった。

 何の罪もないのに、理想を抱いただけなのに、彼らは殺された。この事件を機に、私は
中国共産党と完全に決別した。党利党略だけの党、虐殺者の党に、もはや用はない。それ
から長い間、この日本の地から、あの国で起きていることを冷めた目で見ている。」

 80年代の中国の大学キャンパスで、これほどまでに激しく、民主国家建設が論じられて
いたとは、知らなかった。その生き残りが、まだ各所に潜んでいるはずだ。それにしても
、50歳前なのに、思想の激変を3度経験する。これでは中国の一般民衆が、政治と人を信じ
ないで、金だけを信じるのも無理はない。ご一読をお勧めする。

(10月5日付 ブログ「台湾春秋」より)

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