周英明さんを偲ぶ [宗像 隆幸]

周英明さんを偲ぶ [宗像 隆幸]
本会理事でアジア安保フォーラム幹事や台湾独立建国聯盟中央委員をつとめられる宗像
隆幸氏より去る11月9日に亡くなられた周英明氏への追悼文をいただいた。台湾の独立建
国運動に取り組まれた経緯やその人柄について伝える、盟友であり親友ならではの余人に
は書き難い一文だ。

 周氏が小説を書かれていたことは知る人ぞ知る事実で、現在、台湾独立建国聯盟日本本
部委員長の黄文雄氏からも、その巧みな文章に驚いたとお聞きしたことがある。黄氏はそ
のとき「台湾に白色テロの時代がなければ、物書きになっていたかもしれない。圧政から
脱出するためには理系に進むしかなかった」とも洩らされた。

 享年73歳はまだ若い。今ならどのような小説を書かれたのだろうか。惜しみて余りある
死と言っていい。宗像氏の追悼文を掲載し、改めて哀悼の誠を捧げたい。

 なお、台湾独立運動について、宗像氏に『台湾独立運動私記−三十五年の夢』(1996年
、文藝春秋)という名著がある。彭明敏氏の台湾脱出を成功させたことをはじめ、なぜ台
湾が独立しなければならないのか、本書を読んで活眼した日本人は少なくない。もちろん
、台湾人もである。すでに絶版になっているが、インターネットでならまだ入手できる。
一読をお勧めしたい。
                     (メルマガ「日台共栄」編集長 柚原正敬)


周英明さんを偲ぶ

                      台湾独立建国聯盟中央委員 宗像 隆幸

 周英明さん(東京理科大学名誉教授、工学博士)が、去る11月9日に大腸癌で亡くなっ
た。享年73歳。40数年来の台湾独立運動の盟友であり親友でもあったので、私は心の片隅
にぽっかり穴が開いたような寂しさを感じている。

 1961年4月、文部省の国費留学生として東京大学大学院に留学した周英明さんは、留学
生会館の図書室に置かれていた『台湾青年』を読んで、その晩は興奮して一睡もできなか
った、と周英明・金美齢著『日本よ、台湾よ』(扶桑社、2001年刊)に書いている。『台
湾青年』は1960年に台湾人留学生たちが東京で台湾青年社(現在の台湾独立建国聯盟日本
本部)を結成して創刊した日文機関誌である。台湾青年社への参加を勧誘された周さんは
、悩みに悩んだ。日本の敗戦後、台湾を占領した蒋介石独裁政権の支配下では、台湾独立
を主張するだけでも叛乱罪と規定されており、独立運動の組織に参加すれば、15年から20
年の懲役が普通で、死刑に処された人も少なくなかった(独立運動が合法化されたのは、
李登輝総統時代の1992年である)。国外で活動したからといって、安全とは限らない。蒋
政権の大使館にパスポートを取り上げられるから、外国での滞在は不安定となり、台湾の
親兄弟に圧力をかけられるケースもあった。それでも周さんは、台湾青年社に参加した。
自由な国に住んでいる台湾の知識人としての責任感と正義感が、彼をそう決心させたので
ある。

 台湾青年社に参加した周英明さんは、さっそく『台湾青年』第11号(1961年10月発行)
から、小説「烏水溝」の連載を開始した。台湾青年社に参加して『台湾青年』第9号から
編集を手伝っていた私は、周さんの日文がうまいのに驚いた。台湾青年社の中心人物で最
年長だった王育徳先生(故人、明治大学教授、文学博士)は、「皆これから修士を取り、
博士を取るんだから、日文を勉強しなくちゃいけない。もし、成績が悪くて必要な単位を
取れなかったら、日本滞在権を拒否されてしまう。台湾に送還されることにでもなったら
、監獄に直行だ」と言って、彼らが書いた『台湾青年』の原稿を手直していた。私もそれ
を手伝っていたが、周さんの文章は完璧で手直しの必要はなかった。

 周さんは「烏水溝」の冒頭で、「昔、台風と激流の台湾海峡は烏水溝と呼ばれ、恐れら
れていた。それは既に今日の台湾人と中国人の心の溝を予告していたかのようだ」と書い
ている。その溝の深さはいまだに変わらず、中国は武力を使っても台湾を統一すると威嚇
し、台湾海峡は世界平和を脅かす最も危険な場所の一つとなっているのだ。

 26回で「烏水溝」の連載を終えた周さんは、「『烏水溝』を終えて」と題する文章で、
この小説を書いた理由を次のように説明している。恐怖政治の下で言いたいことを言えな
い台湾の台湾人に代わって、彼らの言いたいことを伝えること。登場人物はフィクション
であっても、彼等の言動は全て実際に見聞したことであり、その記録を残すこと。若い世
代を中心とした戦後の台湾社会の縮図を年代史的に書き、この特異な社会状態を歴史に記
録しておくこと。

 周英明さんは「烏水溝」を書き終えると、すぐにその続編である「脱出」を16回にわた
って連載した。「脱出」では、国民党軍の最前線で、中国大陸から旧式の大砲の砲弾が届
く距離にある金門島での台湾兵達の経験が語られている。

 この「脱出」の最終回では、兵役を終えて金門島から帰還する船上で、親しい友人同士
の二人がこう語っている。

「これから台湾に帰って、一体何が僕らを待っているのか、君は考えてみたことがあるか
い? 奴隷の生活がまた待っているだけだぞ ……今まで僕らが孤島に流刑になっていた
のだとしたら、今度は台湾という、大雑房の中に戻るだけなのさ」
「僕はただ逃げ出したいんだ。自分の生まれた故郷に、これ以上住んでいくのに堪えられ
ないのだ。……僕は真に人間らしい気持ちになりたいだけなんだ。一度だけでいい、自由
な人間とはどういうものか、その気分を味わいたい」

 何も反政府的な活動をしなかったにもかかわらず、政治犯として17年間投獄された柯旗
化さん(故人)は、『台湾監獄島』(イーストプレス、1992年刊)に自分の経験を書き残
した。李登輝総統の下で台湾の民主化がかなり進展してからであるが、私は柯旗化さんと
親しくなったので、その寛容で紳士の典型のような人となりは良く知っている。柯旗化さ
んは、台湾で長年にわたり学生たちの間でベストセラーになった『英文法』の著者でもあ
る。

 恐怖政治(台湾では蒋政権の恐怖政治を「白色テロ」と言う)は、反政府活動を行なっ
た者だけを弾圧するのではない。台湾で政治犯として処罰された人達のうち、実際に反政
府活動を行なった人は百人に一人もいないであろう。反政府活動を行なわぬよう、恐怖を
与えて人民を支配するのが恐怖政治なのだ。正しく台湾は、監獄島であった。特に知識人
が弾圧の対象にされたから、彼等はなんとかして国外に逃れようとした。しかし、この監
獄島に開かれた窓は狭かった。蒋政権が兵役を終えて留学試験に合格した者(殆どが大学
卒)に出国を認めたのは、蒋政権の支配階層の子弟の出国を認めざるを得なかったことも
あるが、蒋政権に対して最も強い憤懣を持っている若い優秀な台湾の知識人をやっかい払
いしたかったからであろう。

 台湾の大学生たちは、この監獄島に開かれた小さな窓に殺到した。大学卒で兵役を務め
た者は殆どが将校になり、周英明さんも空軍少尉であった。しかし、彼らに蒋政権が支配
する台湾監獄島を守るつもりは少しもなかった(中国が攻めてきたら台湾を守るために戦
う、と台湾人の圧倒的多数が本音で答えるようになったのは、台湾が民主化されてからで
ある)。

 周英明さんも、この小さな窓口から台湾を脱出した。当時、留学生のために台湾から送
金することは認められていなかったから、周さんのように外国の奨学金を貰えた人はいい
が、多くはアルバイトで生活費と学費を賄った。アメリカで博士号を取得した台湾人は10
万人を超えるが、彼らの多くは皿洗いなどをして生き延びたのである。

 台湾監獄島を脱出した台湾人留学生の中でごく一部の強い責任感と勇気を持つ人々が、
アメリカ、日本、ヨーロッパ、カナダなどで台湾独立運動に参加した。親しくなった周英
明さんからいろいろ話を聞いて、よくも彼のような超優等生が独立運動に飛び込んできた
ものだと感心したものだ。彼は子供の頃から超優等生であった。それは、学業だけではな
い。周さんのお父さんは鉄道省の技師で、周さんの兄弟姉妹10人は皆日本で生まれている
。周英明さんは8番目の子供として、1933年に北九州の八幡市で生まれた。日本の敗戦で
一家は台湾に帰り、お父さんが台湾の国有鉄道に務めたから、官舎を与えられたが、自分
の持ち家はなかった。国立台湾大学の学生と助手であった時代の周さんは、多い時は同時
に13人もの家庭教師をした。周さんは生まれながらの教育者だったから、それはあまり苦
にならなかったようであるが、老いた両親に家を贈ってから留学したいと考えて、それほ
ど猛烈にアルバイトに精を出したのである。私は、こんな孝行息子を他に知らない。

 日本に来てから3年目に、周英明さんは同じ台湾青年社の仲間の金美齢さんと結婚した
。そして、すぐに娘さんと息子さんが生まれた。周さんの家族に対する献身ぶりも、類い
稀なものであった。学生たちに対しても周さんは、その性格と教育の仕方から大きな影響
を与えたようである。1970年の安保闘争では、学生たちが学内で狼藉を働き、教師を殴る
者までいた。それらの学生達の中には、卒業論文を書くときになり、指導教官を引き受け
てくれる教師が見つからず困っている者がかなりいたと言う。「そんな学生が頼んできた
ときは皆引き受けたよ」と周さん自身に聞いたことがある。娘さんと息子さんも立派に成
長して良き家庭を築き、周さんは5人のお孫さんに恵まれた。三世帯住宅で一緒に住むお
孫さんにとって周さんは、良い子に育つよう慈しみ導いてくれる素晴らしいお爺ちゃんで
あった。

 今回、病床に周さんを見舞った時、「僕はここでも優等生の患者なんだ」と言って、彼
は微笑んだ。周英明さんは、生まれてから死ぬまで超優等生であった。
                                 (2006年11月)

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