台湾��ぢ李登輝が「戦前日本を賛美した」胸のうち  会田 弘継(関西大学客員教授、ジャーナリスト)

台湾��ぢ李登輝が「戦前日本を賛美した」胸のうち  会田 弘継(関西大学客員教授、ジャーナリスト)

【東洋経済ONLINE:2021年10月20日】https://toyokeizai.net/articles/-/463026

  近現代日本は世界にとって如何なる存在だったのか──。リー・クアンユー、李登輝、ブトロス・ガリ、アンジ ェイ・ワイダ、オルハン・パムクら世界の政治家や知識人にインタビューし、それぞれの国が抱えた近代の葛藤と 日本への特別な思いに迫った、ジャーナリストの会田弘継氏の新著『世界の知性が語る「特別な日本」』。同書を 一部抜粋し再構成のうえ、本稿では「台湾民主化の父」と呼ばれた元総統の故・李登輝への過去のインタビューか ら近代日本をどう考えればいいのか、そのヒントを探す。

 香港の自由と民主主義が失われるのを見るにつけ、台湾の大切さを思う。日本が目標に据えながらうまく達成できない二大政党制による平和裏の政権交代を、台湾は3回もスムーズに果たしている。

 そんな例は、東アジアにはほかにない(韓国の政権交代はいつも逮捕劇や自殺などを伴う)。少数民族文化や日本統治時代の歴史も寛容に取り込んで、豊かな文化をかたちづくっているように見える。

◆壁の中の自由とフェアな精神

 1980年代にある老台湾人と出会った。弁護士の張有忠さん(1915〜2007)だ。台湾総統として民主化を達成した李登輝(1923〜2020)より8歳年上になる。台南の山あいにある小さな村の中農の家に生まれた。弁護士を志し、親を説得し、自身で学費を稼ぎながら旧制嘉義(かぎ)中学、台北高等学校(台高)へと進んだ。1935年のことだ。

 「学窓生活において校長・教授は言うまでもなく生徒のすべてが『内地人(筆者注・日本人)だから、または、本島人(同・台湾人)だから』という考え方が全然なく、慈父・兄弟として接することができたこの3年間は、私の生涯を通じて一番幸せであった」(『私の愛する台湾と中国と日本』)

 台高時代を振り返り、張有忠さんはそう記している。張有忠さんは台高から東京帝国大学法学部へ進む。台湾総督府が経営する小石川の寮に住み、授業料免除と篤志家の奨学金を受けた。在学中に高等文官試験司法科試験に合格。弁護士になる前に司法官を経験しようと、司法省に願書を出した。

 司法省から台湾総督府でのポストを提示された。穂積重遠(ほずみ・しげとお)法学部長に報告に行き、本土での仕事を望んでいたことを打ち明けると、「司法省へ行こう」と言う。直ちに一緒に市電で向かった。「人柄・能力は保証する」との穂積の談判で本省採用への変更はすぐ決まり、司法修習を経て1942年末に大阪地裁判事となった。戦時中のことである。省採用が決まったときには「感激のあまり涙があふれた」という。

 張有忠さんの回顧に表れているのは、日本の高等教育における植民地出身者へのフェアな姿勢である。それは明らかに戦時中も維持されていた。エリート社会だけといえば、そうかもしれない。実際、張有忠さんは、そうした自由でフェアな精神が社会すべてに及べば、日本の植民地統治は「世界最高の評価を獲(か)ちえたであろう」が、そうした校風は「校庭を囲む壁に遮ぎられて外に吹きわたることができなかった」と記している。

 李登輝と張有忠さんはともに日本で1945年の終戦を迎える。

 帰国後、李登輝は台北帝国大学を再編し改称した台湾大学へ編入、張有忠さんは請われて故郷台南で検察官となった。

 台湾に戻って約1年後、2人は二・二八事件に遭遇することになる。映画『悲情城市』を見れば、当時の殺戮のおぞましさを感覚的に知ることができる。

 このとき敵対したのは日本統治時代から台湾にいる「本省人」と日本の敗戦後に大陸から入ってきた「外省人」だが、この映画の監督である侯孝賢は、1歳で大陸から移住してきた外省人だ。彼がこの映画をつくったことに、台湾が目指す国民和解の一端がのぞく。李登輝(本省人)に会った際、次のように語っていたのも思い出す。

 「われわれ本省人は外省人を差別したくない。彼らは李登輝が嫌いだ。でも、大陸から来て行き場のない彼らに同情する。ここにいてもらっていい。彼らも、この島で400年、自分の政府と国を持てなかった台湾人に同情をしてほしい。互いに同情しあい良い台湾にしたい」

 二・二八事件の際、李登輝は多くの台湾大学生と同様に避難し、亡き母の実家に身を寄せていたという。事件については多くを語っていない。

 張有忠さんは「中華民国検察官」として事件に遭遇した。板挟みのような状況だった。外省人側の警察によって内乱罪で次々と捕らえられ送検されてくる本省人たちを取り調べなければならない。本省人たちの陳情が来たが一切とりあわなかった。

 しかし「日本で大学時代から教わったとおりに、すべて証拠に基づき捜査し」、結果として証拠不十分で、ほとんどの被疑者を不起訴処分で釈放したと、後年語っている。張有忠さんはやがて検察官を辞め、弁護士となる。

◆1949年10月大陸で共産党政権が誕生

 1949年10月に大陸で共産党政権が誕生すると、蒋介石の国民党政権は台北に首都を移し、それを前に台湾では戒厳令が敷かれて、1987年に解除されるまで40年近く、世界最長といわれる戒厳体制が続いた。

 台湾人知識人たちの一部は台湾を去りはじめ、張有忠さんも悩んだ末、1964年に台湾を去り、「第二の祖国」日本に移り住んだ。台湾籍を捨てる気はなかった。そのまま、大阪弁護士会に出向いて、開業のため登録を申請すると、関西では初のケースで資格審査に時間がかかったが、開業できるとわかり、大阪で弁護士として活動した。

 戒厳令が解けると張有忠さんは随時、台湾へ帰国するようになり、1988年秋には総統代行として民主化を進めだした李登輝と会っている。その際に台湾法の日本語訳出版を提言した。国交はなくとも日台の人や経済の交流は拡大する一方で、法律相談もひっきりなしだったからだ。

 李登輝の依頼で張有忠さんが邦訳の任に当たり、数年をかけ独力で『日本語訳 中華民國六法全書』を完成させ、1993年夏に日本評論社から刊行した。その後、中国人留学生寮「光華寮」の所有権をめぐる中国と台湾の長期訴訟でも台湾側の代理人をながく務め、最高裁での実質的な台湾敗訴後まもない2007年8月、92歳で亡くなった。

 張有忠さんが亡くなって間もない2007年秋、李登輝前総統との会見が実現した。李登輝は、その年の初夏に訪日し、徴兵され日本軍兵士としてフィリピンで戦死し、遺骨どころか遺髪さえ戻らぬままの兄、李登欽(日本名・岩里武則)の霊を祀る靖国神社に初めて参拝した。松尾芭蕉の「奥の細道」をたどる念願の旅も果たしていた。

 ジュネーブに赴任した翌1994年、総統としての李登輝が作家・司馬遼太郎との対談で「台湾人に生まれた悲哀」を語ったのを読み、いつかは会ってみたいと思っていた。

 李登輝との会見は、台北市内の私邸で午後遅くから時間制限なしで始まった。尋ねてみたかったのは、その日本への思い、日本の記憶だ。日本の伝統的価値観を賛美し、極めつきの親日政治家と見られていた。そのせいか、日本の右派が秋波を送っていた。

 しかし、日本統治時代を生きた人である。「親日」と言っても、そう単純なものではあるまい。その機微を対談で引き出したのが司馬であり、象徴的な言葉が「台湾人に生まれた悲哀」だ。

 私邸の広い応接間の大きなソファーセットで向き合った李登輝は、くつろいだベージュ色のジャンパー姿。当時84歳だったが、持病の心臓病などおくびにも見せないかくしゃくぶりだ。

◆対話はすべて日本語だった

 準備体操代わりの世間話のつもりで、国際情勢に水を向けてみたら、「外交の専門家ではないが」といいながら、当時泥沼化していたアメリカの対イラク戦争に始まり、立て板に水で滔々と論じはじめた。明晰な頭脳に舌を巻いた。

 対話はすべて日本語だった。日本統治下で「公学校」(台湾での初等教育)、旧制中学、旧制高校へと進み、戦時中に京都帝国大学へ入学した。当時の日本人のごく一部しか享受できなかったエリートコースを歩んでいる。

 「ご自身と日本の関わりを象徴するものは何ですか」。アジアの要人と会うときには必ず挟む質問を投げかけたら、すかさず「それは日本語」と答えた。李登輝にとって、最も流暢に話せる言語は日本語と噂されるくらいだ。

 そこから李登輝は、戦前日本の教育の賛美を始めた。このペースで戦前日本賛美が続くと、はるばる会いにやって来た意味がなくなりそうだ。聞きたかったのは、「台湾人に生まれた悲哀」だ。

 「日本の統治が素晴らしいものを残したのは事実でしょう。でも、否定的な側面もあるはずです」。そう切り返すと、「それはある」とすぐ応じてきた。それまでの戦前日本賛美が断固たる調子だったので、こちらが意表を突かれるほどだった。

 「日本も外来政権だ。日本人と台湾人の区別が厳然とあった。その区別が、台湾人の心の中に不公平感を残した。結局われわれ台湾人はマージナルな人間だ」。「差別」でなく「区別」と表現したところに、政治家らしい配慮が窺えた。

 「台北高等学校時代の話だ」。李登輝が一例として語り出したのは、母にまつわる思い出だった。母、江錦は戦後1946年5月、李登輝が京都帝大から台湾に戻って台湾大に入り直したところで、戦時中の過労からの病で亡くなっている。

 「母は田舎の女だったから、いつも台湾服を着ていた」。台湾人の女だとひと目でわかる服装だ。それだけで、日本人から蔑みの目を向けられる。

 「あるとき、母親を田舎から呼んで、『菊元』という百貨店に連れて行った。4、5階建てだったか。店の中を母と一緒に、歩いて歩いて、母親の好きなものを見せてやってね」。菊元百貨店は、1932年に台湾初のデパートとして台北の中心部に開業した。

 「そのときの私の思い、わかりますか」。学生が田舎の母に都会の繁華を見せる。普通のことだろう、と思ったのは浅慮であった。李登輝の答えにまた意表を突かれた。

 「私は制服制帽を着けて母と歩いた。(周りの日本人に)こう言いたかった。母は、あなたたちが見下げる台湾の田舎の古い人間かもしれない。だが、息子は高等学校の学生だ。立派な息子を産んだんだ。それを見せるんだ……むかしはそういうところに、精神的につらいところがあった」

◆2020年7月この世を去った

 当時の旧制高校生の数は2万人程度、こんにちの大学生数が260万人というから、いかにエリートだったかがわかろう。日本の教育制度の中で頂点を極めることで台湾人として味わう不公平感に折り合いをつけていくが、それでも埋めあわせられないものがある。「精神的につらいところ」というのは、そういうことか。

 つらかった差別の思い出を聞いて、李登輝の日本賛美は、ことによると「戦略的」なものではないかと思えてきた。台湾がまた中国(外来政権)にのみ込まれることなく民主化を進めるには、あなたたちに頼るほかないことを理解してほしい。だからしっかりしてほしい。そう訴えかける巧みなメッセージだったのだろう。

 自分は単純な日本賛美者ではありませんよ、あなたが知識人なら当然わかっているでしょうね、と言いたかったのだろう。それが「台湾人に生まれた悲哀」なのです、と言いたかったのかもしれない。

 2020年7月。香港の自由と民主主義が失われゆく中、その時点ではおそらく世界で最も成功したといってもいいコロナ禍への対策をとる台湾を見届けて、李登輝は逝った。

 ポピュリズムや忖度政治で混迷する欧米や日本の民主主義を尻目に、この年1月の台湾総統選は大きな混乱もなく、民主勢力の女性総統を再選した。女性指導者に国を委ねるという点でも、日本がまだできていないことを台湾民主主義は達成している。

 李登輝と張有忠さんという2人の台湾人に、近代日本をどう考え、前に向かって行くべきか、手掛かりを示してもらった気がしている。

※この記事はメルマガ「日台共栄」のバックナンバーです。

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