俳句に託す台湾の心 [黄 霊芝]

俳句に託す台湾の心 [黄 霊芝]
一昨日の本誌で、秋の叙勲で旭日小綬章を授章された台湾の黄霊芝氏(台北俳句会代表)
がかつて日経新聞に「俳句に託す台湾の心」と題した一文を寄稿した旨を紹介したところ、
全文を読みたいという要望がありましたので、ここにご紹介します。
 先にこのエッセイについて「言葉に無駄がないのに驚かされた。日本人の作家でもこの
ような研ぎ澄まされた文章にはめったにお目にかかれない一文だった」と感想の一端をつ
づりましたが、改めて詠んでみて、その感を深くしています。
 皆さまのご感想をお寄せいただければ幸いです。
 なお、いささか読みづらいのですが、振り仮名はカッコでくくりました。 (編集部)


俳句に託す台湾の心−日本語で創作活動、ただ自分のためだけに
                                    黄 霊芝

【平成17年11月21日 日本経済新聞「文化」欄】

  尾牙(ボオゲエ)や口には出せぬ火の車

 尾牙とは台湾で春節(旧正月)前に開く饗宴(きょうえん)のこと。福徳正神を祀(ま
つ)り、従業員をねぎらう。昔の従業員は年間契約で、尾牙の卓上の料理の鶏の頭が自分
に向いていると解雇が意味された。

 全く異なる季節感

 私は台湾で俳句を詠む。多くは日本語で詠む。台湾で詠む俳句の趣は日本と大いに異な
る。最も重要な季節感が日本と全く異なるからだ。

  デング熱見舞ひは電話もて慇懃(いんぎん)
  波羅蜜を小鉢植ゑして有髪の尼

 等々、日本には無かったり、意味が違う季語も多い。
 私が代表を務める台北俳句会は今年、結成三十五周年を迎えた。会員数は約八十人。大
半が、かつて日本の支配下にあった台湾で日本語による教育を受けた台湾人だ。誰もが、
台湾語や北京語以上に、日本語を違和感なく使うことができる。
 俳句会は月に一回。会員は誰もが高齢だ。最近、鬼籍に入る者がとみに目立つ。私も今
年喜寿を迎えた。これまで台北俳句会で出した俳句集は三十二集、私自身の俳句集は二十
集。ほかに小説なども書いてきた。一昨年には日本で「台湾俳句歳時記」(言叢社)も出
版できた。この場をお借りし、私自身と俳句会の歩みを振り返ってみたい。

 警官の目を逃れ会合

 私は台湾南部の台南出身だ。九人兄弟の末っ子という気楽さと内向的な性格から、小さ
いころから作家になることを夢見ていた。小中学校では周りの生徒はほとんどが日本人だ
った。私は学校はもちろん家庭内でも日本語で語すことが多かった。詩や小説を読み、自
分で書くこともあった。すべて日本語だった。
 そんな私の夢は終戦で挫折した。日本軍に代わって大陸からやって来た国民党政府は日
本語を禁止し、北京語を公用語とした。終戦時、私は高校生だった。北京語による学力調
査で戸籍簿に「不識字(字知らず)」と書かれ、衝撃を受けた。
 それでも私は台湾の最高学府である台湾大学の英文科に入学できた。戦時中ろくに勉強
などしていなかったが、同年代の優秀な日本人が一斉に帰国した。合格はかなり容易だっ
たのだろう。
 北京語や台湾語、英語を勉強したりしたが、今さら日本語以上に使いこなせるはずもな
い。一時は彫刻家を志したが、結核にかかり、彫刻刀を握れなくなって断念した。すべて
に投げやりになり大学も中退した。日本で結核を治療しようと自宅を売って費用を工面し
たが、政府の出国許可がおりず断念。海外渡航が制限された時代だった。
 ろくに仕事が出来なかったので貧しかった。野草や蛇、鼠(ねずみ)などを食べ、犬の
交配や小鳥の雛(ひな)を商って何とか口に糊(のり)した。日々の励みは、やはり創作
だった。詩を作り、俳句を詠み、小説を書いた。発表のあてなどなかった。いつしか、私
は自分のためだけに創作するようになっていた。
 一九六九年、アジア・ペンクラブの会合が台北で聞かれた。日本の文壇関係者と台北の
歌壇や俳句作家の間で交流会が持たれた。これを機に台北俳句会が結成された。
 仲間たちと集まっては俳句を詠み、評し合う。私が見つけたささやかな喜びだった。当
時、十人以上の会合は当局への届け出が必要で、日本語の会合は禁止されていた。純然た
る俳句の会でも、それは同じだった。いつ警官に踏み込まれ、逮捕されるか知れない。俳
句会と会員を冒涜(ぼうとく)されたくない。私は俳句会の際、常に短刀を一本、カバン
の底にしのばせていた。
 あれから幾星霜を重ねただろう。戒厳令が解かれて久しい。

  生き残る蝉(せみ)ゐて人ゐて楽しまず

 私の二十集目の作品集に詠んだ句だ。

 日本を初めて訪問

 昨秋、生まれて初めて日本の土を踏んだ。正岡子規国際俳句賞を頂いたためだ。東京と
松山を訪れた。松山の街並みは、私が生まれ育ったころの懐かしい台南の風景と、どこか
しら似ているように思えた。
 よく聞かれる。言葉を奪われたことをどう思うか、と。だが、世界の歴史を繙(ひもと)
けば、ある国が他国を侵略し、ある民族が他民族の言語を奪うことなど、当たり前に繰り
返されてきたことだ。弱者が強者に逆らえるはずもない。今さら何を言うつもりもない。
 私は日本語で考え、学び、創作してきた。妻は私に台湾語で小言を言い、それを息子が
北京語でなだめる。何の不自由もない。私は多分、今後も日本語での創作を続けるだろう
。誰のためでもなく、ただ自分のためだけに。(こう・れいし=台北俳句会代表)

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