――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港87)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港87)
【知道中国 2205回】                       二一・三・初二

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港87)

 

 錆びた鉄扉を開けて第2のアーチをくぐると、通路脇の左右に奥に向かって白い壁が伸びている。壁ではあるが、なにかを遮っているわけではない。霊灰を安置する壁。東欧辺りで見られると言われる壁墓地である。

壁全体が縦・横・奥行が30センチメートルほどの舛条に区切られている。この「龕」と呼ばれる四角い舛に遺灰を納め、30センチメートルほどの大理石の板に死者の名前、生没年、出身地を刻んで密封する。原則として一個の龕が一人分だが、夫婦で一個の龕に納まることもある。

大理石の上部の真ん中辺りに生前の写真を焼き付けたものもみられた。香港全体の墓地用地が少なくなると同時に、殖民地政府が火葬を提唱したこともあり、1974年に東華義荘の理事会の決定で建設が始まった。

 霊灰の安置された壁を左右に見ながら少し進むと、周囲を長い平屋状の建物に囲まれた広場にでる。それぞれの建物の広場に向いた側は、幅2メールほどの殺風景な板戸で戸締りがされている。まるで車庫のようだが、車庫と違っている点は板戸の上の壁には「天字一号」「天字二号」などと書かれたプレートが打ち付けられているところだろうか。

この建物を「荘房」と呼び、板戸の向こうに棺が安置されている。「死者のホテル」と呼ばれるだけあって、「天字一号」「天字二号」などのプレートが、まるでホテルのルームナンバーと思えるから不思議だ。これとは別に「骨倉」と呼ばれる大きな建物もあり、そこには遺骨や遺灰が納められている。

 広場の真ん中に立って周囲を見回すと、目の前に荘房と骨倉、その屋根越しに見える膨大な数の墓。その墓からは、棺を掘り起こす鍬の音が聞こえてくる。この場所が醸しだす雰囲気は、どう考えてもフツーではない。カビ臭く、どんよりと重たげな空気が広大な施設全体を覆ったまま、まるで時が止まってしまっているようだ。粉嶺の墓地が漂わせていた開放的な雰囲気の佇まいとは違っている。

 「あっちの大きな荘房から入ると、棺にお目にかかれるよ」との老婆の声に誘われ、斎場脇を抜けて進むと、小さな広場にでる。目の前の建物の真ん中辺りにポッカリと穿たれた長方形の入口は、重そうな扉で閉じられていた。

その入口の上にある壁には、右から左へ「東華義荘」の四文字。入口左右の石の柱には、「宅兆暫安爰得我所」、「首邱待正且住為佳」の対聯が刻まれている。これを「宅兆、暫らくはここに安んじ我が所をえ」「首邱、正されるを待ちて且し住むを佳と為す」と読めば、「しばらくは、この地を宅兆【ボチ】とお思いになってください」「首邱【故郷のボチ】が整うまで、この地で安らかにお休み願います」という意味になるだろう。さすがに「入土為安」の4文字が形容しているように、故郷に埋葬されるのを待っている棺の中継場所である。

重そうな戸を開けて中を覗くと、暗やみの中に無数の棺が見える。一瞬、背筋に悪寒が奔ったが、改めて目を凝らしてみると、鉄製の棚に数多くの棺、遺骨を納めた金塔、篭、缶、旅行カバンなどが所狭しと置かれている。それらの上に積もるホコリの厚さが、故郷の土に戻れないままに“長期の一時滞在”を余儀なくされている死者の無念さを物語っているようだった。

それにしても東華義荘という施設を思いつき、今日に伝え、棺に入った死体や金塔などに収めた遺骨をそのままの形で保存する行為に、どのような意味があるのか。一日も早く埋葬し、合同慰霊祭でもしてしまえばよいものを。だが香港の人々にとってみれば、それは多分にバチ当たりなことなのだろう。異文化理解・・・たしかに容易くはない。《QED》

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