――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港81)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港81)
【知道中国 2199回】                       二一・二・仲八

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港81)

 

 書簡に登場する永生源号とは長生店、つまり葬儀屋のこと。やはり運棺作業には長生店は必要不可欠なのである。

一連の作業の流れを追ってみると、棺や骨箱とはいえ品物である以上、それなりの手続きを経なければならないことが分かる。

先ず送り出し先の華僑組織が輸出入にかかわる書類を整え、棺や骨箱を海運会社に運送を依頼する一方、船舶名を香港側に連絡し必要な金額を送金する。当該船舶は香港に入港し沖合いに停泊する。東華三院から委託された長生店は小型船舶で出向き、洋上で棺や骨箱を受け取った後に東華義荘に運び込む。

その日から、東華義荘での一時保管がはじまるわけだが、こうみてくると東華義荘は「死者のホテル」でもあり、同時に保税倉庫のような役割も担っていたことに思える。

次に東華三院は新聞広告などで棺や骨箱の到着を告知する。遺族や関係者の申し出を待って、棺や遺骨は専属契約を結んでいる小型漁船を改造した「蝦苟艇」と呼ばれる長生店所有の専用船、つまり「棺運びの船」に積み込まれ、広東省各地の指定された地点に運ばれ「入土為安」することとなる。

もちろん費用一切は遺族負担が原則だろう。だが、これまでも見てきたように、多くは死者の所属していた華僑組織が負担したとも考えられる。時に香港の有力商人が用立てた場合もあったようだ。最終的に殖民地当局に輸出税を支払い、一切の手続きが完了する。正しく輸出入業務である。  

長生店が最も繁盛していたのは20世紀の30年代らしい。ということは、この時期、香港経由で多くの人々が広東各地から海外に流出して行ったとも考えられる。

ここで話を元に戻すが、「黄鳳華霊柩一具」もサンフランシスコから太平洋を越え香港に到着し、東華義荘で暫しの逗留の後、蝦苟艇で故郷の肇慶四会に帰郷し、望みのままに「入土為安」したことだろう。

サンフランシスコから香港経由で故郷までの輸送費や諸雑費、さらには親族への埋葬費用などは、やはり梁啓超が指摘しているように致公総堂への会員の寄付でまかなわれていたに違いない。まさに至れり尽くせりの手配だが、そこまでしても「入土為安」したい、そこまでしても「入土為安」させてやりたいという心情・・・尊いとは思うが、どうにも理解し難い。とはいえ、やはり見事なまでの相互扶助システムであることに注目しておく必要がある。

以上は1つの棺を輸送した例だが、次に多数の遺骨の宅配例として、三藩市肇慶総会館(SUEHING BENEVOLENT ASSOCIATION)と金山大埠寧陽会館(NINGYONG BENEVOLENT ASSOCIATION)が東華三院との間でやり取りした書簡で見ておきたい。なお三藩市も金山も共にサンフランシスコを指し、肇慶総会館は広東省出身者の、寧陽会館は香港に近接する広東省寧陽県出身者の組織した同郷会館である。

肇慶総会館からの書簡に記された「本堂此次?運先友、一切工作業経済完竣・・・〔中略〕先友壹佰壹拾件分装弐十壹箱・・・〔中略〕懇請派員前往該船起運、並乞分別妥為発落。除飭駐港弊善堂知照外・・・」の文面から、肇慶総会館はアメリカ各地に設けられた同郷人の埋葬地を訪ね歩き、墓地から掘り起して収集した110柱の遺骨を20個の骨箱に収め、香港への輸送を託す。その一方で東華義荘に職員を派遣し、遺骨を受け取り故郷に葬ることを依頼していることが判る。

「駐港弊善堂」ということは、サンフランシスコの肇慶総会館は傘下の慈善組織である善堂を香港に置いていた。はて、棺の中身は遺体だけだった・・・のだろうか。《QED》

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