――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港30)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港30)
【知道中国 2148回】                        二〇・十・廿

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港30)

 

香港では著名人から無告の民まで多くの人との出会いがあったが、そのうちの1人が「反共文人」で知られた司馬璐だった。誰の紹介だったか。アポなしの直撃だったのか。今となっては定かではないが、尖沙咀の自宅兼事務所の佇まいが衝撃的で、印象に強く残る。

外国人観光客相手のインチキ土産物屋街の6~7階建ての老朽雑居ビルの屋上に建てられたプレハブ式。室内は書籍と印刷物で雜然としていた。屋上の空地に隙間なく置かれた野菜を育てている木箱や鷄小屋を指し、「自力更生だ!」と胸を張る。気力充実・意気軒高。

彼は近代中国の思想的幕開けでもある五・四運動が起きた1919年に、江蘇省泰州に生まれた。地味豊かな農村でも、生活は悲惨だった。貧しく不器用な父親は軍閥に引っ張られた挙句、混乱に巻き込まれ無実の罪で銃殺された。母親は13歳の彼を残して「窮死」する。

貧しい彼を助け、彼の向学心を支えてくれた応援者は、じつは共産党関係者だったのだ。かくして運命の糸に操られるようにして共産党活動に加わり、盧溝橋事件勃発後の1937年末には「革命の聖地」へ向かっていた。

延安では、国民党や日本軍治下の秘密工作要員を養成する敵区工作幹部訓練班で学んだ。毛沢東による1、2週間に1回の政治報告はユーモアに溢れ、笑いを誘ったらしい。

「中国革命が勝利したら、どんな国家を建設しなければならないか。同志諸君、1人1人に洋風の瀟洒な家とステキな車を進呈しよう。みんなに海外旅行を約束しよう」。「兄弟(おれ)もまだ外国に行ってないから、その時になったら一緒に出掛け、見聞を広めたいもんだ」――聴く者を愉快にさせるような毛沢東の発言には、「党の指導者の口からでたことだが、とても信用できそうにない。だが、確かにこう聞いて、誰もが愉快な気分になる」と感想を漏らす。稀代のアジテーターである毛沢東の片鱗が窺える。

もう1人の指導者である王明はソ連共産党史を講義した。颯爽と現れ、理路整然と畳みかけるような話し振りには説得力があり、全員が聞き惚れた。だがも講義は1回だけで後は他人任せ。当時はレッキとした王明派で、常に周囲に「我が党の天才的指導者・王明同志万歳」と声を挙げることを求めた康生は、西洋商社の買弁風のキザな服装を好んだ。革の長靴を履き、西洋種の猟犬を引き連れ、颯爽と馬に跨り狩猟に勤しみ、4人以上の護衛に守られ威風堂々と四囲を睥睨していたとか。王明も康生も、とかくモスクワ帰りのエリート臭プンプンだから、誰からも好かれそうにない。やがて康生は毛沢東派に転じ、党内で特務活動を牛耳り毛沢東恐怖独裁体制確立に大いに貢献するが、それは後の事だ。

陳雲、康生、李富春、王稼祥、張聞天など幹部から党組織、秘密工作、群衆運動、中国革命と武装闘争、階級闘争と民族闘争などの講義を受けた後、敵の国民党支配地区に送り込まれ秘密闘争に投入される。死線を越え数々の成果を挙げるが、同志への拷問が日常化し、昨日までの同志を反革命・反党分子として処刑する。だが翌日には、処刑を指令した幹部が同じ罪名で抹殺される。かくて「こんな組織生活に、正直言ってうんざりしはじめていた。・・・マルクス主義に対する素朴な信仰は心の中で脆くも壊れ果てた」そうだ。

組織への猜疑心と恐怖心は抑え難く、1949年5月の共産党軍入城を機に上海を脱出する。香港ではペンを武器に共産党を告発し続ける一方、豊富な経験に裏打ちされた共産党史研究を続けていた。時折訪ねると、「大陸の仲間からの情報」を基にした鋭い情勢分析を聞かせてくれた。もちろん、日本で学んでいた中国共産党イメージは完膚なきまでに崩れ去っていた。いまから振り返れば、偶然がもたらしてくれた“最上の教育”だったと確信する。

1983年に香港を離れた後、延安時代の苦労を共にし、改革・開放初期の中国で異彩を放った女性ジャーナリストの弋揚とニューヨークで結婚。2019年には百歳を迎えた。香港の現状に対する思いを、気骨の「反共文人」としての彼に問い質してみたい・・・が。《QED》

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