――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港157)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港157)
【知道中国 2275回】                       二一・九・仲二

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港157)

春秋戯劇学校校長の粉菊花女史は、かつて立ち回りを主とする娘を演ずる「刀馬旦」と呼ばれる役柄で上海の舞台に立っていた。当時は60代後半ではなかったか。白髪交じりで、高齢女性の間で一般的だったオカッパ風の髪型。背は高くはなく細身だった。江青によく似た顔つきで、いつも舞台の袖辺りから童伶の演技に鋭い視線を投げ掛けていた。

童伶が演技をトチッたり、勝手な所作など見せると、演技中であっても鋭く罵声を浴びせ、叱正した。その姿は法廷で金切り声を張り上げて弁明に努める一方、自分を逮捕した共産党幹部――かつては毛沢東の臣下であり、毛沢東が死んだら手のひらを返すように江青を窮地に陥れた――を、悪し様に罵っていた江青を連想させるに十分だった。

粉校長の怒りに童伶は竦んでしまい、演技は止まる。舞台のうえの共演者たちも金縛りに遭ったように動きを止め、客席は戸惑い、息を呑む。小屋全体にイヤ~な雰囲気が流れるが、彼女は一向に気にする風を見せない。一瞬の後、演技はぎこちなく再開される。

だが、それで終わりではない。舞台が跳ねるや、恐怖の「打戯」が始まる。俗に「好戯還在後台(面白い出し物は楽屋で)」と言うが、しくじった童伶を舞台に呼び戻し、目の前でおさらいをさせる。首、手、足、腰・・・間違えたところを手にしたムチでピシリッ、バチッ。躊躇なしである。物見高いは何とやら。客が去り、明かりも消され暗くなった座席で見学させてもらうが、やはり童伶が可哀想で気まずいかぎり。ならば即刻立ち去るべきだが、好奇心は同情に勝る。打戯の一部始終をジックリと見させてもらったことも屡々。

舞台が始まる前の稽古でも打戯は見られたから、観客の目が気にならない学校では相当に激しく、容赦することなく打戯が行われていただろう。

もちろん児童虐待と非難されても仕方がないが、当時は香港でも取り立てて問題にはならなかった。むしろ粉校長からすれば、確かな芸を身につけることで童伶が明るい将来を招き寄せることになるはずだといった固い信念で振るった“愛のムチ”に違いない。

後に『さらば、わが愛/覇王別妃』(1993年)の冒頭で科班の師匠からの打戯に耐えかねた童伶が首つり自殺をするシーンを見た時、咄嗟に粉校長の打戯を思い出したものだ。ついでだが、この映画の主人公が習芸に励んだ科班のモデルが、清末から民国期の北京にあって多くの名優を輩出したことで知られる富連成(前身は喜連成)である。

ついでのついで。香港映画『七小福』(1988年)は中国戯劇学院をモデルにしたとされるが、同学院の童伶が公演する小屋が荔園内に設定されているところからして、あるいは中国戯劇学院は春秋戯劇学校を指しているのだろうか。当時、春秋戯劇学校と同じような戯劇学校が香港島にある(あった)といった話を耳にしたことがあるから、両校は別なのかもしれない。中国戯劇学院が閉校した後、春秋戯劇学校が第六劇場の公演を引き継いだ。あるいは春秋戯学校の閉校の方が先立ったのか。

今となってはどうでもいいことだが、粉校長の隣に控え常に笑顔を絶やさなかった小太りで桃割れ頭の李国祥さんなら、その辺の詳しい事情を知っていたはず。とはいえ敢えて断るまでもなく枝葉末節。そう、どうでもいいことではある。

打戯もまた習芸の道とはいうものの、余り気分のいいものではない。ある夜、打戯を見た後で気分転換に尖沙咀に戻り、厚福街の突き当たりの左手にあった上海料理「三六九」へ。すると春秋戯劇学校で童伶の世話役で、第六劇場で「検場(くろこ)」を努めている孫さんが一人で食事中だった。「先ほどは大変でしたね。お食事ですか」などと声を掛けながらポケットを探ると、いつになく懐に余裕があった。そこで三六九の馴染みの年老いた「伙計(ボーイ)」にソッと、「あと一品とビール。勘定はこっちで」。やがて孫さんが「どうもごちそうさま」。ちょっとしたタニマチ気分。分不相応に優雅な一瞬だった。《QED》

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