――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港156)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港156)
【知道中国 2274回】                       二一・九・十

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港156)

第六劇場を常打ち小屋として京劇を演じていた童伶(こどもやくしゃ)は、春秋戯劇学校の生徒たち。校舎は尖沙咀の宝勒巷(PRAT AVE)が漆咸道(CHATHAM ROAD)にぶつかる少し手前の左側にあった。古い低層ビルで、石造りの階段を上った先が入り口。その右手に春秋戯劇学校の看板が掛けられていた。例の数学教授に連れられて行った猿料理の店は、たしか宝勒巷を挟んで春秋戯劇学校の向かいの薄暗い路地の先だったような。

童伶の年齢は小学校低学年から中高生程度。中には20歳を過ぎたと思しき薹が立った童伶も見られた。日中は学校で稽古し、夜は第六劇場で舞台に立つ。常打ちだから、1年365日休みなし。稽古に舞台の毎日だから、普通の子供たちのような勉強をする時間はないだろう。こんな疑問を、第六劇場で顔馴染みになった頃に学校関係者に尋ねると、「ウチも学校だから」との返事。だが、どう考えてもマトモに勉強している風には思えなかった。

中には京劇役者になろうと望んで入学した者もいただろうが、彼らの多くは生活苦から親が学校に預けたり、孤児だったり。その多くはハングリーな生活環境にあった。芸で身を立てようというわけだ。

その昔、舞台に立つのは役者の子弟、「科班」と呼ばれた役者養成所の出身者、芝居好きの素人である「票友」から転じた者であった。役者家庭出身の筆頭が京劇を世界に知らしめた梅蘭芳だが、この系統の役者は票友出身者と同じように極めて少ない。19世紀末から20世紀半ばまでの京劇の黄金期を彩った役者の多くは科班出身者である。

京劇と日本の古典芸能――歌舞伎、能、狂言から落語など歌舞音曲の世界――を対比して不思議に思うことは、日本では芸の伝承のために「名跡継承」という制度があるが、中国にはそれに類する制度が見当たらないことである。たとえば歌舞伎では市川團十郎の芸は家芸として市川宗家に伝わる。團十郎の息子は團十郎の名跡と芸を継ぐ。そこで十一代目海老蔵は十三代目團十郎を名乗るわけだ。落語でも柳家小さんや林家正蔵のように一族の血と結びついた名跡がある。三遊亭圓歌の場合は血の繋がりはないが、先代(三代目:歌奴)から当代(四代目:歌之介)へと芸が引き継がれている。

中国の古典芸能の世界においては日本に見られる名跡という考えがない。梅蘭芳のように世界的に知られた稀代の名優であっても「初代」ではないから、とうぜん「二代目」以降も存在しない。息子の梅葆玖も父親と同じく「旦(おやま)」を演じたが、「二代目梅蘭芳」を名乗るわけではなく、また名乗れない。いわば役者は誰もが初代で、その芸は一代限りなのである。

名跡を受け継ぐと言う発想がないから、日本の古典芸能の世界でみられるような一家が練り上げた芸を親から子へ、子から孫へと血と共に子々孫々に伝えることも、見込みある部屋子を鍛え上げて芸養子として迎え家芸の永続を目指すこともない。落語のように一門の芸風を伝えるため、先代師匠の芸に最も近いと認められた弟子が名跡を継ぐこともない。

たとえば梅蘭芳に倣った芸風の役者を「梅派」と呼び、「流派」の2文字で芸の系譜を表現することはあるが、あくまでも芸はその役者個人に限られる。これが中国の伝統芸における伝統と芸の“在り方”と捉えることができるだろう。

もっとも譚志道⇒譚?培⇒譚小培⇒譚富英⇒譚元寿⇒譚孝曽⇒譚元岩のように「生(たちやく)」の芸を1世紀半以上も継承している役者一族もあるが、極めつきの稀有な例だ。京劇の世界での譚一族の地位は歌舞伎界で言うなら市川宗家に当たりそうだが、とはいえ譚志道から譚元岩まで、誰もが初代であり、何代目を名乗ることはない。

伝統芸と名跡――ここら辺りに〈生き方〉〈生きる姿〉〈生きる姿〉としての文化の違いがありそうだが・・・と問題提起に止め、話を第六劇場と春秋戯劇学校に戻したい。《QED》

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