――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港155)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港155)
【知道中国 2273回】                       二一・九・初八

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港155)

じつは台湾に移って後の?介石政権下では、異土である台湾に暮らす外省人が大陸に残してきた母親や肉親への思いを表だって語ることは禁句だった。いわば台湾海峡の向こうに広がる故郷に残してきた親族に対する「里心」を、たとえ心の片隅にでも持ち続けている限り、?介石が頑ななまでに叫び続けた「大陸反抗」の矛先が鈍ってしまう、というわけだろう。

そこで教育部は正式に「四郎探母」の公演を禁止した。

ところが1975年に「大陸反抗」の象徴であった?介石が亡くなり、代わって息子の?経国が台湾のトップに立つや状況は一変する。非現実的な「大陸反攻」の旗を早々と降ろし、「台湾こそ我が故郷」の政治路線へと大胆に舵を切り、「中華民国の台湾化」への道を踏み出す。まさに大陸との“腐れ縁”を断ち切り心機一転しての出直し、ということか。

1978年5月、顧正秋、章遏雲、姚玉蘭、哈元章、周正栄など当時の台湾における京劇界の大看板による「四郎探母」の合同公演が試みられた。これによって「四郎探母」の公演が正式に許可されたことになる。それでも、その後も舞台には“屈辱に耐えての救国”といった雰囲気が漂っていたようだ。いずれにせよ「四郎探母」の上演解禁への動きは、?経国政権の両岸関係に対する政治姿勢の変化を微妙に反映させたと考えられる。

一方の中国大陸では毛沢東が亡くなり、四人組が逮捕された1976年、内部資料用として、「四郎探母」の一部が上海で映画撮影されている。当時、文革は正式に終結していたわけではなく、もちろん、この映画が一般公開されることもなかった。

改革開放から数年を経た1980年代初期に上演されているが、依然として「壊戯(悪影響を与える芝居)」の判定が解かれてはいなかった。そこで公演の広告宣伝は許されていない。おそらく極めて限られた範囲を対象にした公演だったに違いない。

やがて中国の京劇界に「四郎探母」の本格解禁の機会が訪れる。1997年7月、返還に沸いた香港であった。

中国が「香港の中国回帰」と呼ぶ香港返還を祝うため、京劇の名優たちが大挙して香港を訪れ数日間の連続公演を行ったが、その際の柱に「四郎探母」が据えられた。香港を異邦に囚われた四郎に、長い年月を経た後に果たせた親族との再会を「香港の中国回帰」に見立てたというわけだ。以後、「四郎探母」は人気を博し、全国で公演されている。

2005年には共産党の思想教育を統括する丁関根中央宣伝部長――�小平のポーカー仲間――の命令によって、脚本の整理・改編が行われた。その際、15年前に生き別れになった漢族の夫人に関する部分が削られている。2018年に撮影された映画版「四郎探母」は、2005年の脚本に基づいているとのことである。

古典京劇の代表作とはいえ、たかが舞台の上に描き出される絵空事の世界であり、加えて遥か1000年以上も昔の宋代の物語でしかない。にもかかわらず大陸で、台湾で、あるいは香港で、楊四郎が敵国に身を売った漢奸であることを理由に上演が禁止されたり、政府の政策変更に応じて上演が禁じられたり許されたり、あるいは民族が嘗めた屈辱の歴史を晴らした外交成果を称えるべく華々しく公演されたり――京劇が持つ「借古諷今=古を借りて今を諷(と)く」という政治的役割を、「四郎探母」は果たし続けてきたことになる。

そんな背景を持つ「四郎探母」が、2018年に再び注目を集めたのだ。

中国が置かれた内外環境を冷静に考えてみるに、いまさら漢奸批判もないはずだ。純然たる古典京劇の代表作を記録に留めておこうと、映画版が制作されたとも考えられる。四郎の数奇な運命が「中華民族の偉大なる復興」と重なり合うとも思えないのだが、ヒョッとして国を挙げて侵略者への敵愾心を燃やさせようとでも考えたのだろうか。《QED》

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