――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港6)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港6)
【知道中国 2124回】                       二〇・八・念九

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港6)

 喧嘩は売られても買わないが、アルコールが目の前に現れたらゼッタイに逃げない。拒否しない。遠慮しない。そこで2段ベット上段からソロリと降り、先ず一献。この先、Tさんとの共同生活は1年ほど続いたが、深夜の酒盛りは半ば常態化していった。

 翌朝、ヴィクトリア港を横切るフェリーで香港島へ。海底トンネルも地下鉄もなかったから、九龍と香港島を繋ぐ公共交通機関はフェリーだけだった。佐敦道碼頭のフェリーは上下2層になっていて、上層でヒトを、下層で車輌を運んでいた。晩秋の海風が、昨夜というより今朝方のアルコールで火照ったままの顔面に心地いい。

 香港島の上環(セントラル)の一角の国際大廈にあった日本総領事館へ。在留届を提出し、留学に関する手続きは総て完了した。当時の香港にどれほどの数の日本人が長期滞在していたかは不明だが、留学生もそれほどに多くはなかっただろう。

大学は香港大学と中文大学の2校だけで、中文大学を構成する崇基書院、聯合書院、新亜書院の3書院、新亜書院の上に置かれた大学院に当たる新亜研究所と指折り数えても、10人をそう多くは出てはいなかったと記憶する。最も多かったのが新亜書院に学ぶ亜細亜大学からの交換留学生だった。彼らは3年次に編入され、新亜書院卒業と同時に亜細亜大学卒業の資格も取れたから、今風に表現すればダブル・ディグリーということになろうか。

各学年3人で計6人。基本的に大学キャンパス内の学生寮に住んでいた。この制度が現在も継続されているかは不明だが、亜細亜大学の名に相応しい先進的な制度だったと思う。

その夜も山林道の第一日文へ。Y先生への挨拶のためだった。「中国語の勉強にもなるから」と誘われて教室へ。後ろの方の席に座る。日本語授業の初体験である。頭の中で日本語を中国語に、中国語を日本語に訳す。学生が話すのは広東語訛りの中国語だが、簡単な日常会話だから聞き取れないわけではない。そこで最初に口をきいた李さん、黄さん、呉さん、邱ちゃん・・・半世紀続く付き合いの始まりだった。

授業が終わる。文蔚楼の隣の文昌楼(だったはず)に住まわれるY先生と一緒に帰路に。

帰宅するや、「今度の日曜日に第一日文の学生を呼んで歓迎会をするから」と、大家のSさんから有り難いお誘い。断るまでもない。二つ返事である。じつはSさんは香港に逃げてきた後に日本語に興味を持ち、当時は第一日文で先生をしていた。日本には行ったことがないと言うが、見事な日本語だった。さぞや努力を重ねたことだろう。その努力の一端を思い知らされることになるが、それは後々の話ということで。

待望の日曜日である。朝、台所に行くと可愛らしい子犬が飛び跳ねていた。さて、犬を飼ってはいなかったはずだが・・・。昼頃に台所を覗くと、皮を剥がれた子犬がタイル張りの床に仰向けに転がっていた。夕方、李さん、黄さん、邱ちゃんたちがやって来た。Tさんも参加し、総勢10人ほどで囲んだのが「香肉(いぬにく)」の鍋料理である。湯気の立つ鍋の中身は、あの子犬。コップのビールは進むが、流石に箸が進まない。

とはいえ「不要客気(えんりょせず)!」と声を掛けられれば、やはり鍋に箸を突っ込まなければ申し訳ない。友情だ! 気合いだ! 鍋の中の野菜だけでは失礼と思い、恐る恐る肉を口に。トロ~リと溶けるようで、旨い。香肉との長い付き合いの始まりである。

本当は中国語の個人レッスンを受けたいが、なにせ緊縮財政。そこで「国語片」(台詞が中国語の映画)を見て覚えようと思いつき、第一日文近くの倫敦戯院(ロンドン・シアター)へ。当時の流行りの「功夫片(武侠モノ)」を何回か見て気づいた。魯迅の『孔乙己』ではないが、セリフは「之乎者也」で終わる。これを訳せば「・・・でゴザル」だから、の日常会話の役には立たない。映画館通いは早々に止めた。では、どうする。窮すれば通ず、である。幸運にも大スポンサーが現れた。可愛く聡明な4人の子供たちだ。《QED》

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