――「臺灣の事、思ひ來れば、感慨無量・・・」――田川(13)田川大吉郎『臺灣訪問の記』(白揚社 大正14年)

――「臺灣の事、思ひ來れば、感慨無量・・・」――田川(13)田川大吉郎『臺灣訪問の記』(白揚社 大正14年)
【知道中国 1976回】                       一九・十・念六

――「臺灣の事、思ひ來れば、感慨無量・・・」――田川(13)

田川大吉郎『臺灣訪問の記』(白揚社 大正14年)

(3)の「異日黨衆相結びて不軌を圖り、却て日本に累」を及ぼすとの危惧について、それは偏に「日本の統治權の盛衰、張弛に關係する問題」であり、「支那人なる人種に特別の痼疾」に起因するわけではない。「支那人なるが故に必ず貪り必ず欺くとのみ考ふべからず」。インドであれ香港であれ、「英國は、始めより、其土人を信じて、凡そ細小の政は、皆之を土人に任せ、英人は單に治者として其大綱を握」っているだけだ。

田川の理解に依れば、「日本人の支那人に於ける、相反目憎惡すと雖も、抑同洲同文の人種」だから、「英人の印度を制し、香港を制する」に比べれば数段も容易いに違いない。そこで(3)は杞憂に過ぎないから気にすることはないという結論になる。

以上、飽くまでも田川は現地人を任官させることは「日本の威信には毫も妨げなかるべしと信ず」とする。

 だが、田川には「英人の印度を制し、香港を制する」理由について大いなる誤解がある。 たとえばイギリスにおける香港である。

 アヘン戦争のよって香港がイギリス殖民地に組み込まれてから20年ほどが過ぎた万延元(1860)年、幕府は初の遣米使節として新見豊前守を正使とする一行を送り出した。ワシントンからは西回りの帰路を選んだが、最後の寄港地である香港で目にした情景を、「英人亦た鞭を挙げて群衆を制し往来を開いて我徒を通行せしむ、支那人英人を恐るる事鱗〈いろくず〉の鰐に逢うが如し」(『亜墨利加渡海日記』)と綴っている。

 香港でイギリス人は現地人を「鞭」で従わせていたがゆえに、「支那人英人を恐るる事鱗の鰐に逢うが如し」であったはずだ。インドでも事情は同じであったに違いない。「英國は、始めより、其土人を信じて」からではなく、「始めより、其土人を信じて」いない。だから徹底して力で押さえつけた。かくして「英人の印度を制し、香港を制する」ことが可能であったと見做すべきだ。しょせん殖民地支配とはそういうものであり、殖民地の住民はそのような運命を生きるしかないということではないか。

田川は「英國は、始めより、其土人を信じて、凡そ細小の政は、皆之を土人に任せ、英人は單に治者として其大綱を握」っているにすぎないと考えるが、これも大いなる誤解と言わざるをえない。実態に即して言うなら「其土人を信じて」いないから徹底して訓致した「其土人」に「凡そ細小の政」を「任せ」る。そこで「英人は單に治者として其大綱を握」っていることができたのだ。

大正14(1925)年春、上海の日系紡績工場に端を発した大規模な労働運動が中国各地に伝播し、香港でも激しい反英闘争が起こった。共産党政権は勝利したと総括するこの闘争からほどない1927年に香港を訪れた魯迅は、「香港はチッポケな一つの島でしかないのに、中国のいろいろな土地の、現在と将来の縮図をそのままに描き出す。中央には幾人かの西洋のご主人サマがいて、若干のおべんちゃら使いの『高等華人』とお先棒担ぎの奴隷のような同胞の一群がいる。それ以外の凡てはひたすら苦しみに耐えている『土地の人』だ。苦労に耐えられる者は西洋殖民地で死に、耐えられない者は深い山へと逃げ込む。苗や瑶は我われの先輩なのだ。(一九二七年)九月二十九の夜、海上」と綴っている。なお「土地の人」の原文は「土人」である。

「中央には幾人かの西洋のご主人サマ」、その下に彼らの意を受けた「若干のおべんちゃら使いの『高等華人』とお先棒担ぎの奴隷のような同胞の一群」が控えている。「それ以外の凡てはひたすら苦しみに耐えている『土地の人』」であり、彼らのなかで「苦労に耐えられる者は西洋殖民地で死」ぬしかないのである。これが殖民地の現実だろうに。《QED

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