――「由來支那國民は經濟的、然り利益的觀念が強い」――片山(1)片山潜「支那旅行雜感」(大正14年)

――「由來支那國民は經濟的、然り利益的觀念が強い」――片山(1)片山潜「支那旅行雜感」(大正14年)
【知道中国 1961回】                       一九・九・念六

――「由來支那國民は經濟的、然り利益的觀念が強い」――片山(1)

片山潜「支那旅行雜感」(大正14年)

 

 德田の次に、片山潜(安政6=1859年~昭和8=1933年)の「支那旅行雜感」を読む。共に共産主義者だが、立ち位置の違いが中国社会に対する見方の違いに繋がっている。

 岡山県生まれの片山はアメリカに渡り、イエール大学神学部を苦学して卒業。キリスト教社会主義の影響を受ける。帰国後はアメリカのセツルメント運動に共感し、1897(明治30)年に神田三崎町の自宅を拠点にキリスト教社会事業を進める。その一方で『勞働世界』を創刊し、職工義勇会(日本最初の労組)や社会問題研究会(後に社会主義研究会)を結成するなど労働運動に力を尽くし、1901(明治34)年には幸徳秋水らと共に日本民主党(日本最初の社会主義政党)の結成に参加している。

 1903(明治36)年の末に再度渡米し、翌年に第2インターナショナル第5回大会で本部員に選ばれた。日露戦争中にアムステルダムで開催された第6回万国社会党大会に出席し、でロシア代表と共に労働者による反戦を訴えた。

 1906(明治39)年の日本社会党結党に際しては議会政策論を主張し、幸徳秋水ら直接行動派と対立し袂を分かつ。1911(明治44)年の東京市電ストを指導し逮捕・投獄。大正天皇即位の恩赦で出獄し、1914(大正3)年のアメリカ亡命後にマルクス・レーニン主義に転換し、北米で共産主義活動を展開。1921(大正10)年、ソ連に移りコミンテルン常任執行委員会幹部に。以後、創設期の日本共産党を指導。また国際反帝同盟を指導し反戦運動を展開。

十全な任務を完遂できないことを理由に、やがて活動が制限され、モスクワに留め置かれたまま、1933(昭和8)年11月に病死。棺を担いだ14人の中にはスターリンや野坂参三が。遺骨はクレムリン宮殿の壁に埋葬され、脳は頭脳研究所に提供されたというから、それなりに評価されていたということだろう。

だが、モスクワのアパートで晩年を共に過ごした日本人女性はコミンテルンから日本の秘密警察のスパイと見做され、日本共産党は与かり知らなかったらしいから、矢張り不思議だ。寂しさを紛らわそうとしたのか。孤独に耐えられなかったのか。単にテクセが悪かったのか。いずれにせよ片山の革命家人生は儚く空しく侘しく、しかも滑稽だ。

こう見ると、「支那旅行雜感」は片山にとって人生の絶頂期の活動記録と言えるだろう。

片山は1924(大正13)年暮れにウラジオストック経由で、上海、南京、天津を経て北京入りしている。「僅々一ヶ月の滯在で飄然として外蒙古を通過して現住所のモスコウに歸ると云ふが如き旅行」と記すが、「支那旅行雜感」の末尾に「(大正一四、三、七北京にて)」と記されていることから、滞在は「僅々一ヶ月」ではなかったらしい。

「支那旅行雜感」の筆を擱いたとする5日後の3月12日、「革命なお未だ成功せず、同志よって須らく努力すべし」との一言を残し、孫文が北京で死去している。

その1カ月前の2月10日、内外綿会社(1887=明治20年、渋沢栄一ら創業)の上海支店第5工場の労働者が待遇改善を要求してストに打って出た。これをキッカケに労働運動が拡大し、5月15日に労働者が射殺されたことを機に運動が激化する。5月30日には学生・労働者のデモに租界のイギリス警官隊が発砲し、多数の死傷者を出す。かくして「五・三〇運動」と呼ばれる全国的な反帝国主義闘争に火が点いた。いわば片山は中国の労働運動、孫文主導の国民革命高揚期を前にした、極めて微妙な時期に北京に滞在していたわけだ。

かくて片山は、「内外綿會社のストライキ騒ぎ、丁度僕が上海に上陸した時はそのストライキが始まつて居た、が餘り世人は注意を拂はなかつた」と記しているが、時期が時期だけに偶然の中国入りとは思えない。現地視察か。現場指導か。はたまた督戦か。《QED》

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