――「民國の衰亡、蓋し謂あるなり」――渡邊(14)渡邊巳之次郎『老大國の山河 (余と朝鮮及支那)』(金尾文淵堂 大正10年)

【知道中国 1902回】                      一九・五・丗

――「民國の衰亡、蓋し謂あるなり」――渡邊(14)

渡邊巳之次郎『老大國の山河 (余と朝鮮及支那)』(金尾文淵堂 大正10年)

 

 一方、「外人の力の及ばざる處、若くは各地方都市の支那人街を見よ」。「狭隘なり、泥濘なり、凹凸なり、不潔なり」。かつては立派だったであろう「甃路は、磨滅し、破損し」たまま。それというのも「現代支那人の路政について全く無責任無頓着」だからだ。

 国家として統一した貨幣制度はなくデタラメ極まりない。それこそが「商業、政治の根本政策の確立に怠れる證」であり、とどのつまり「支那人成行任せ、眼前主義」なのだ。 切符の売り出しは無制限、車内は混雑の極みである汽車事情もまた「眼前収利の主義に捉はれて他を問はざるの精神を示すといふべきか」。

 「遺跡故物を察すれば」、「荒廢」「頽廢」するばかりで「殆ど庇護保存の道を講ぜず」。宝物などを保存するが、「大官之を私して僞物を以て之に代ふと稱せらるゝの常態なり」。たしかに財政上の問題もあるが、「要するに是、國家的、國民的に系統的一貫の思想なき」がためだ。

 墓地をみると「丘墳累々、遠く田野の間に相連なるところ少なからず」。このまま墓地を野放しにしていたら、「如何に廣大な支那」であったとしても「終に墓地のため良地を占領」されていしまい、近代化のために必要不可欠なインフラ建設も覚束なくなる。「墓地亡國」とでも言うべき状況だ。

 じつは10年ほど前に調査して判ったことだが、当時の中国では年間に大阪市の人口に近い800万~900万人が死亡し、シンガポールの国土と同程度の土地が墓地に変わっていた。しかも貧乏の共同体でしかなかった毛沢東時代では想像すらできないほどにカネ持ちになったわけだから、現在の葬式は豪華絢爛さを増すばかり。「終に墓地のため良地を占領」される「墓地亡國」を突き抜けて葬式亡国となりかねない。老人大国は葬式大国でもある。

渡邊に戻る。

歴史的にも文明上からも「支那の天地は雄大」であり、「支那の人民は強健なり、勤勉なり、温順なり気力旺盛なり、能く食ひ、能く談じ、能く遊び、社交に長じ能く遠人に懷」きはするが、その「民族性は個人主義にして利己本位」だ。「生命と財産」が至上であり、「身を殺して仁を爲すが如き獻身犠牲の念は之なきを通常とす」る。「一身一家の安全と榮華と逸樂を以て最上の目的とし、苟くも之を妨げ」ることさえしなければ、統治者が誰であっても構わない。古代から理想の治世と言われ続ける鼓腹撃壌というものだろう。

「利己的箇人主義を妨ぐるが如き暴�不�のものは廢せられ」て当然だから、野心家は「此民族性を利用して事を起し、爲に古來禪讓放伐の民主主義的革命を繰返して止ま」ない。それがために異民族による王朝が存続できる。「有�と雄才」によって王朝を樹ち立てたとしても、やがて「利己的個人主義の本能が発揮」され「放蕩逸樂、其目的に向つて突進す」ることになり、やがて天下の富を蕩尽し人民を犠牲にするから、「以て革命を馴致す」ることになる。

彼らは「何等かの一大理想を以て、積極的に、徹底的に、新國家、新社會を現出」させようというのではなく、「自己の權力と榮華と安全とを以て最終目的」としているから、戦いにおいても「利害の岐るゝ所を打算して、姑息の妥協」を求める。だから合従連衡は当たり前だ。さて、だとするなら、現今の対米貿易戦争に「姑息の妥協」はあるのか。

軍閥は「収斂、中鉋、収賄、賭博、淫蕩、耽樂を事とし、精鋭を作り、健全なる治安を致す」などということを考えるわけがない。学者にしても「亦空理を談じ空論に耽り」、「頻りに列國を誹謗し、現政を非難」し、「自らを高う」するのみで役には立たない。「新思想を云云して、非國家的共産社會主義を説く」が、やはり「利己的個人主義」に従う。《QED》

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