――「民國の衰亡、蓋し謂あるなり」――渡邊(1)渡邊巳之次郎『老大國の山河 (余と朝鮮及支那)』(金尾文淵堂 大正10年)

【知道中国 1889回】                       一九・五・初四

――「民國の衰亡、蓋し謂あるなり」――渡邊(1)

渡邊巳之次郎『老大國の山河 (余と朝鮮及支那)』(金尾文淵堂 大正10年)

 著者の渡邊は明治2(1869)に茨城に生まれた新聞記者。中卒後の明治21年に都新聞へ。2年後には大阪毎日新聞に転じ、東京支局長(34年)、編集主幹(36年)を経て大正9(1920)年に辞職。その後は悠々自適の生活を送ったとか。その時期の中国旅行を纏めて本書を出版したようだが、出版から3年後の大正13(1924)年に没している。

 冒頭に「余の日東男兒として朝鮮及支那に對するの情」を「痴人夫の戀愛に類するものあるを自認せずんばあらず」と記した渡邊は、朝鮮と支那に対しては「同文同種の近親族たるやを否定」できないし、「余の腦中常に朝鮮及支那を以て別國視する」ことはできない。

「余の?々朝鮮支那に遊びて其山靈に觸れ其水神に接し又其國民を親まんとするの念切」と公言する。

このように“病”の篤い渡邊であればこそ、「日鮮併合を力説して止ま」ず「日支親善を以て日夕の題目」としている。

だが一方で渡邊は「日本國民の一員」の立場に立って、「帝國の經濟的運命」「政治的利害」「國防的位置」を「世界の大勢に照らす」なら、やはり「日鮮支の三國は夢寐にだに之を分離」することはできないし、「之を一體とし、之を一圏域として、其密着、其親和、其融合を希圖せざるを得」ないと説く。

つまり個人的心情でも国際情勢から考えても、やはり「百聞は一見に如かず」というわけで、辞職直後の大正9(1920)年5月12日に「欣然として獨り夙川の宅」を離れ、「宿志到達の第一歩」を踏み出し、「阪神電車に乘じて三ノ宮」を経て下関へ。

釜山に上陸した渡邊は朝鮮半島を縦断して鴨緑江を渡り、安東県から奉天に向かうことになるが、それはちょうど韓国が「三・一運動」「独立万歳運動」と呼ばれる反日独立運動から1年ほどが過ぎた頃に当たる。

今年3月1日、韓国において文在寅大統領主導で「三・一運動百周年」を記念し、大々的な反日機運を盛り上げようと狙ったことは記憶に新しいが、当時の日本が朝鮮問題をどのように捉えていたのかを振り返ることも必要だと思う。そこで渡邊が編集主幹として大阪毎日新聞に発表した主張――「伊藤公の遭難」(明治42年10月26日)、「韓國併合すへし」(同日)、「日鮮の融合」(大正8年3月4日)など一連の「對鮮論策」を簡単に見ておきたい。

「我に累し世界の平和を脅かす」のが「韓人」だ。日清戦争にせよ日露戦争にせよ、我が国に「絶東の禍根を絶つの大任務を負はしめ」たのも、韓人あればこそである。かくして「我が保護の下に其平和と其進歩を全う」できるようになった。その結果、「多くの良民が我が保護政策を喜こ」んでいるにも拘わらず、「比較的少數なる上流者、尚頑冥固陋にして、面從腹非、表面我が恩に懷いて裏面之を仇敵視」するばかりだ。彼らは「韓國の爲に誠意を傾倒して將來の良圖を畫せる者を、悉く殺害し去らんとする」。

「米人顧問スチーヴンスを桑港に暗殺し」、「伊藤公を哈爾濱に狙撃し」、「常に全國各地に蜂起して日本人を害し、韓國の良民を苦し」めるのも、全て韓人だ。しかも彼らは朝鮮半島のみならず米国、清国、露国など各地に潜み連携を強めている。我が国が「絶東及世界平和に對して十分に其道を盡」すためには、「宜しく韓國を併合して我が版圖となし、韓國皇帝を廢して華族に列し、以て日韓統一の實を擧げ、以て絶東平和の基礎を安全にし、内外における韓人の取締を嚴重にし諸般政務の改良を日本の意の如く行ふべし」。これこそ「歐米諸國の異議なかるべき所のみならず」、日本の直接統治こそが「彼等の身命財産の安全に利なる」ところ。「固より諸他列國の異議」があろうわけがないはずだ・・・が。《QED》

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