――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(37)徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

【知道中国 1812回】                      一八・十・丗一

――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(37)

徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

■「(七二)何故に支那文明の同化力は宏大なる乎」

「蓋し支那人の外物を容るゝや、必ず之を支那化せずんば止まず」。「支那文明の同化力の、其包容力に比して、更に一層宏大な」り。じつは「支那の文明は、亞細亞の一大平原たる、殆んど一世界とも云ひ得可き地域に發生し、四圍より、各種の要素を會湊し、之を凝結し、之を結晶したる者なれば」こそ、「同化作用の無敵なる所以」であり、「如何なる外來の勢力も、之を其の根底より破壞するは、到底不可能」である。

そこで考えられるのが「支那文明の敵ありとせば」、それは外来の文明ではなく「其の久遠の歷史」にある。「年代と與に、其の消耗する量の多きに比して、新たに補充する量の少なき結果」、当然のように「文明の新鋭、活潑なる生氣を、減殺」することになる。

――ならば放っておけば、遅かれ早かれ自壊の道を進むということか。

■「(七三)日支何れか同化力強き乎」

両国人を「公平に觀察すれば、支那人が日本化するよりも、日本人が支那化する方、多かるべく推定さらるゝ也」。それというのも、「支那文明は、其の物質上の愉快、及び便宜に於て、何となく人を引き附け、吸ひ込むが如き力ある」からだ。

「之(支那文明)に接觸する久し」ければ、「何人も自から支那化し、支那人化するを禁ずる能はざる可し」。「支那文明は、無意識の裡に、他を催眠術に誘ふ底の魔力を有す」。かりに「支那が武力的に、不能者たるが爲めに、總ての點に不能者視」したなら、それは「實に大なる油斷」である。彼らは武力的な短所を補うだけの長所を、「他の方面に有する」ことを忘れてはならない。

「吾人(徳富)は日支親善を、中心より希望す」るが、彼らの同化力には「深甚の考慮を廻らさゞるを得ない」。彼らの「同化力や、今日と雖も決して侮る可らざる也」。

■「(七四)二重人格」

「支那人は僞善者」ではない。「心に思はぬ事を、口に語り、表裏二樣の使ひ分けを、自ら承知の上にて、之を行ふ」という「先天的の二重人格」の持ち主だ。だから「彼等は僞善を行ひつゝ、自ら僞善たる事に氣附か」ない。気づかないのだから「之を僞善と云ふは、餘りに支那人を買被りたる、判斷を云はざるを得」ない。

 「表裏二樣の使ひ分けは、支那數千年を一貫したる、一種の國風、民俗」というものだ。彼らは「理想を立てゝ、之に嚮往する」のではなく、「理想は理想とし、實際は實際として、截然たる區別を定め」ている。だから彼らの「實際を知らんと欲せば、寧ろ理想の反對を見る」がいいのだ。

 「實際が理想の如くならざればとて、毫も疚しき所」はない。だからこそ「彼等が煩悶なく、懊惱なきも、亦當然也」。そこにこそ「支那人が比較的、樂天人種たる所以」がある。

 ――無原則という大原則に敵う術があるわけがない。ならば面子とは理想なのか、実際なのか。彼らが掲げる理想のなかに実際があると仮定するなら、「實際を知らんと欲せば、寧ろ理想の反對を見る」のではなく、理想の3,4割を実際と瀬踏みしてみるのがいいのではなかろうか。「煩悶なく、懊惱なき」ゆえに無反省・・・これを無敵というに違いない。

■「(七五)理想と實際」

「支那に於ては、一切の法度、如何に精美に出て來りとするも、概ね徒法たるに過ぎず。然も徒法たりとて輕視す可からざるは、猶ほ廢道たりとて、道として保存せらるゝが如し」。

 なにせ「世界に支那程、空論國はなき也」。だから「議論の爲めに議論」であり、「實行と議論とは、全く別物視」している。そこに「彼等の議論が無責任」の背景がある。《QED》

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