――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(21)上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)

――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(21)上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)
【知道中国 2003回】                      一九・十二・念一

――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(21)

上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)

 悲憤慷慨の後、上塚はアヘンに関心を向ける。

 古くから雲南、四川はアヘンの産地だった。だから「其の盛なる時に當つては、至る所の山野、萬頃、紅白とりどりの罌粟の花を以て埋つて居つた左右である」。上塚が歩いた当時は「鴉片の栽培は禁ぜられ、其の禁を犯したものは死刑に處すとの命令が嚴かに下つて居るけれども、鴉片吸飲の事は、禁じても禁じても止まない。殊に四川、雲南、貴州方面の住民は、貴賤上下の別なく、老弱男女を問はず、鴉片吸飲の習慣を持つて居る」。「其の害毒は、魔女の如き底強い魔力を以て、老大支那の血肉を腐らして行く」。

 四川から雲南まで雇った人足などの大半は「鴉片?者(アヘン中毒患者)」だった。その実態を知っておくことも中国文化――つまり中国人としての《生き方》《生きる形》《生きる姿》――を理解するうえで必要不可欠なことだろう。そこで上塚に従って、その実態を見ておきたい。

 「一度?者になつた者は、此れを吸はなくては、動く事も出來ない。絶へず欠伸をし、絶へずピツピツと唾を吐いて居る。頭髪は萎み、顔色は土色をして、兩眼からは涙を流し、鼻からは鼻汁、口からは涎を垂れて、腰屈み、歩む脚取りはよろよろと、實に恐るべき有樣である」。こうなるともう「一時も鴉片が無くては過せない。其の身から鴉片の氣が切れると、直ぐに元氣が消滅する」。だから1日に3回も4回も吸わねばならない。

 朝は寝床で「一服又は二服づゝ吸ひ終ると、彼等は茲に初めて人間らしき元氣が出來る」。そうなって後に朝飯を食べ茶を飲んで、「元氣を振起して一日の仕事にかゝる」のだが、「午後頃になると、彼等は非常に疲れてくる」。それというのも「鴉片の氣」が切れるからだ。

 そこで次の宿場に着くや否やアヘン吸引所に飛び込んで「一服又は二服」。これの繰り返しで、彼らの手にする手当の大半は「鴉片の爲に消へ行く」。そんなわけで貯金などあるわけがない。だから病気になった瞬間、「身體の自由を失ひ、遂に路傍に斃死するに至る」。その先は「取片付ける人も無く、其の死骸は遂に野犬や狼の餌となる計りである」。都市での行倒れ死体は郊外に掘られた大きな坑に葬られる。これが無縁仏を埋めた万人坑だった。

 雲南当局が「禁止種煙、如違槍斃(アヘン栽培厳禁、違反者は銃殺)」などと厳命したところで、「邊陬に於ける鴉片の栽培は未だ容易に止みさうに無い」。やはり「支那を亡すものは鴉片の害毒である。國民を懶惰ならしめ、頽廢せしめたるのの一半は確に鴉片に基く事は爭はれない。私は四億民生の幸福の爲に、吸煙の習慣が、一日も早く、支那の人々から一掃されん事を希望して止まない」。だが、異国人たる上塚が「希望して止まない」と綴ろうとも、民族的悪癖は根治不能であり、「希望」するだけムダなのだ。

 アヘンと同じく問題だったのが、中国各地で頻発していた身代金目的の誘拐だった。殊に四川から雲南への旅は峻険な山また山の一本道であり、匪賊が山塞を構え獲物を待ち構えている。だから「賊徒は、此の山險に據つて行人を掠めるのである。彼等は、よい代者と見れば、直ぐに、此の斷岩上の山塞に連れ込み、吊梯子をはづして幽閉する。さうして、此の人質の爲めに莫大な代償を請求するのである」。

 艱難辛苦に耐えながら、「四川雲南路の中心地である」昭通に到着した。

「通過貿易地として重要なる地位を占めて居る」いるにも拘わらず「其の生活程度は極めて低い」。だが「郵便局、電信局の二機關」に加えて「英人一人佛人一人の宣�師駐在」し、中学校と女学校を経営している。「此の田舎の人を相手に、總ての不便、苦痛と戰ひ乍ら、自分の使命を果さんと努力する人々に對しては、よし時には、排日の煽動者たるが如き事ありとするも、深甚なる敬意を表せざるを得ない」・・・敵ながらアッパレだ。《QED》

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