――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(16)上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)

――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(16)上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)
【知道中国 1998回】                      一九・十二・仲一

――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(16)

上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)

 次が「死刑囚」である。

 ある日の昼下がり、「ジリジリと照り付ける陽に、疲れた體を休めて居ると、一種悲調な喇叭の音が、傳はつて來た」。駆け込んできた宿の人が「今死刑があります」。すぐ通りに飛び出すと、目の前を刑場に引かれて行く4人の囚人が粛々と通り過ぎて行く。誰もが後ろ手に縛られ、「背中に小さな卒塔婆樣の板を背負ひ乍ら、ニヤニヤと笑ひ、時に譯の判らぬ事を呟き乍ら、蹌踉、蹣跚として、ひかれて行く」。

 着替えもそこそこに近くの死刑場に駆け付けると、「刑は既に終つて、四人の死骸は、血にまみれて、路傍に�つて居る。十五分前に笑ひ乍ら通過したあの囚人が、今は無慘たる死骸となって、遥に幽明を異に」している。命に儚さに、上塚は「折角持參せし寫眞機も、遂に用ふる事」はなかった。

 じつは「死刑は連日の如くに續いた」。やはり「悲しい喇叭が響」く。「スワ死刑ぞと、支度して」宿から飛び出すと、いつものように「死刑の行列がしづしづとやつて來る」。今度は2人。「一人は極めて賤しき身なりの者、他の一人は白面痩?、白麻の装束をした�養ありげの人」だった。「前者は呼號し、高笑し、カラ元氣を出せる内にも、刑の恐怖がアリアリと讀め」た。ところが「後者は顔こそ青白く血の氣失せたれ、其の態度は如何にも從容たるものがある」。

 上塚は2人の最期を見届けたいと思い立つ。足早に刑場に向かい、「刑の執行を見物した」というのだ。既に「兵士の銃口は集塵の後頭部に向けられて居」た。「刑場の眞中には赤い毛布が敷かれてある。進めツと號令が發せられた」。死刑囚は前に歩き出す。「さうして囚人の右足が赤毛布に移つた其の刹那に」、「ドドンと小銃は發射せられた」のである。

 ここで2人の死刑囚の死に臨んだ覚悟のほどが現れた。

 「白装束の人は」、覚悟していたかのように従容として死に就いた。「赤い血が白麻の着物にサツト流れる」。だが「極めて賤しき身なりの者」は、「初彈を浴びるや、齒をむきだして、後方を振り返つた」。次いで第2弾を射込まれたが、「如何にも獰惡な、且つ怨めしさうな顔をして睨む」。まだ絶命してはいない。そこで「第三彈が命中するに至つて、幾多の妄執を後に殘し」、遂に息絶えた。

 かくて上塚は、「人間の最後の場合、�養鍛錬の有無が、如何に強く左右するかを、マザマザと見せ付けられて、少からず啓發する所があつた」という。

 ネットで検索していると、現在の中国のおける死刑現場の写真を目にすることがある。たしかに囚人は「背中に小さな卒塔婆樣の板を背負」っている。文革当時もそうであり、さらに遡って建国前後の土地改革当時も最終的には農民から殺されることになる地主は「背中に小さな卒塔婆樣の板を背負」っている。その「小さな卒塔婆樣の板」には罪名と死刑囚の名前が記されている。国民党が共産党容疑者を死刑にする際も同じだった。

ここで思い出されるのが、明朝滅亡を100年ほど前にした嘉靖三十五(1556)年に中国を訪れたドミニコ会士ガスパール・ダ・クルスが記した『クルス『中国誌』』(講談社学術文庫 2002年)である。クルス自らが「本章は注目に値する一章」と特記する「第20章 死刑を宣告された者たちについて」では、死刑囚の「背中に小さな卒塔婆樣の板」に言及がされている。

ということは、死刑囚と「小さな卒塔婆樣の板」の関係は数百年も昔から――いや、もっと以前からと考えられる――も続いていた。これを言い換えるなら、死刑においても伝統様式(?)が貫かれていたことになる。ここまの伝統墨守とは恐れ入るばかり。《QED》

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