――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(21)鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

【知道中国 1928回】                       一九・七・念一

――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(21)

鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

改めて毛沢東と�小平を較べてみると、「經濟的の民」であっても洗脳しさえすれば「政治的の民」に翻身(うまれかわ)るはずだなどと思い込んでいた毛沢東は、「經濟的の民」を甘く見ていた。中国人を誤解していた。自らの洗脳テクニックを過信していた、というべきだろう。であればこそ、�小平の方が中国人の性質を見抜いていたことになる。これを言い換えるなら共産党の独裁政治に関する限り、�小平の採った対外開放方式は毛沢東の対外閉鎖方式より費用対効果の面で数段優れていたといえる。

だから共産党独裁の開祖は毛沢東ではあるが、独裁維持という面で考えるなら�小平こそを中興の祖として“大絶賛”されるべきだ。だが、これを地球的規模に置き換えると、対外閉鎖政策によって「經濟的の民」を中国大陸の内側に固く押し止めておいてくれた毛沢東に大感謝の上に超感謝すべきだ。これとは反対に、対外開放政策によって「經濟的の民」を世界中に解き放ってしまった「老いぼれで醜悪なあのチビ」(廖亦武『銃弾とアヘン』白水社 2019年)は永遠に非難されてもおかしくはない。それというのも、現在の世界に「經濟的の民」という災難の種を撒き散らしたからである。やはり疫病神ですよ。

さて鶴見に戻りたい。

「人間の性格が環境に左右せらるゝといふことは、論議の餘地のない明白な事實である」ことからしても、「自分は小國の民と大國の民の性格の相違といふことを常に強く感ずる」。だからこそ「小ぢんまりした日本といふ國に、三千年も棲んでゐた吾々が、あの茫々たる支那大陸に散布してゐた支那人と自ら異なる性情、趣味を有するに至るとは蓋し自然の數である」。

加えて、どうやら「國民の間には自ら一種の癖がある」。イギリス人が男性的でフランス人が女性的であると同じように、「日本人は男性的の人種である」が、「支那が女性の美�を具へた民」であると感じる。だが、それは「支那人を罵る意味では毛頭ない」。

「粗野な氣のたつた負けず嫌ひの日本人の性格は男性的のものである」。これに対し「あのゆつたりとした穩な、そして趣味の豐な支那人の性格は、女性の美�を現はしてゐる」。「尚武の精神とか、大和魂とか、負けず嫌ひといふやうな心持のみを讃美して、落ついた優しい趣味や瑰麗な文學や繪畫を輕蔑し易い日本人の心持は、善惡共に男子の性質である」。そこで「日本人の缺點が男子の缺點であるやうに、支那人の缺點は女子の缺點であると言ふことが出來る」のである。

ここで世界を考えるに、「多くの國々が物産に於て有無相通ずるやうに、各國民も相異る性格を磨いて世界的文明完成の大業に貢獻する」のであるならば、「男性國と女性國が相竝んで存在するといふことが又一箇天に攝理であるに違ひない」。だが、その「一箇天に攝理」を殊に最近の「女性國」は理解しないのだから、全く以て困ったこと限りなし、である。

鶴見は「支那を旅行することが決まつた時、自分は現代支那を研究する前提として」、現状肯定と現状否定の2つの「假定を想像してみた」という。

先ず現状肯定だが、「今日の儘の支那を以て人類の到達する當然なる境涯となすところの説」と「今日の支那の動亂を以て當然の歸結とする」の2つに分けられる。

「人類が發達の經路を辿つて行けば、最後には國家の權力が次第に吾々を拘束しなくなる。故に今日の一見無政府の如き境涯が、人類の到達すべき境地である」という考えに立つなら、確かに現状を前者と見做すことができるだろう。一方、後者の見方ならば現在は「過渡期である」。だから「支那の爲に憂ふべき事でもなければ悲むべき事でもない。當然支那國が經過すべき境涯」である。だが第2の説は成り立たないという。《QED》

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