――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(16)鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

【知道中国 1922回】                       一九・七・初九

――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(16)

鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

 停車場の兵士たちを見入っていた鶴見は「一見汗に塗れた此の兵士達の間に、一定の規律のあることを見出した。空腹であるに相違ない此の青年達は、誰も先を爭つて其の食物を焦り求めなかつた」。彼らは「穩かに受取つて靜かに喰べ出した」。しかも「幾時間かの後、彼等は戰場に赴く」にもかかわらず、である。食べ終わると彼らは「平氣な顔をして」、「呑氣な無關心な顔付」で戦場に向かったのである。

 鶴見が関心を持ったのは北京に在る政府の権力を目指しての軍閥による内戦の帰趨ではなく、「小倉の制服を着て無名の戰場に行く多くの支那の青年の身の上であつた」。

 この時の鶴見の関心を今風に言い換えてみると、たとえば文革を舞台に考えるなら、毛沢東対劉少奇の権力争いではなく、紅衛兵の腕章を腕に「無名の戰場に行く多くの支那の青年の身の上であつた」となろうか。あるいは現在なら習近平一強体制下の行方などではなく、黙々とカネ儲けに邁進する「多くの支那の青年の身の上であつた」かも知れない。

 かく考えると、かの国は「『見知らぬ國』であ」り、「あまり相知つたと自惚れ過ぎた」ことを、改めて痛感する。

 北京の中心に位置する正陽門から中華門通りを歩き、「右手の聳ゆる洋館と、其の前の空地を守護する一隊の米國水兵とを目睹す」れば、「北京に於ける列國の地歩を意識」せざるを得ない。かくて「東洋に於ける歐米列國角逐の縮圖を深き感慨を以て想起する」はずだ。そこに日本が見えて来るわけもない。

 多くの豪壮華麗な「宮殿をめぐつて、北京全市に民家が、すき間もなく立ちならんでゐる」。正陽門の上に立てば、「黃甍、青甍、黛甍、參差として相連なり、はては遠山の翠微に融け込んで居る」。「雄渾な都市と王城とを觀た後で、旅行者は地上に降り立つて、この地に生息する何百萬の北京人の生活と感情とを凝視すべき」だ。なぜなら、「さうすると、一見漫罵に値するやうな、支那人の生活の中に我々日本人の企及しがたき大きさと深さとのあることを感得する」ことができるからだ。

「北京ホテルの四階の部屋に昇つて、前に面する玻璃窓を押し開いた」。「偉大なる北京の市街が、今脚下に展開してゐるのである」。「北京は返すがえすも美しい都である」。

 だが「其の同じ夜、砲聲が殷々を南の方に聽かれた。張作霖が長辛店で敗戰した夜である」。

 「耳を澄まして聞くと、折々、ドーン、ドーン、と言ふ音が聞える。正しく大砲の音である。今戰爭が始つて居るのである。長辛店の爭奪戰である」。かくて「驢馬も水牛も、自分の腦裏から消えていつた、渾沌たる支那の實相が、まざまざと思ひ浮べられる」。「平和な古城と、滴る如き新緑に對して」、「十數萬の軍隊が、奔馬のやうに荒れ狂つてこの數里の彼方に戰つて居やうとは、どうしても思はれない」。じつは「それは非常に悠長な心持のする戰爭である」。かくて鶴見は「二十世紀のホテルから、一足飛びに二千年前の三國史のなかに歸つて往つたやうな心持になつた」のであった。

 北京は「東洋に於ける歐米列國角逐の縮圖」という現代そのもの都市でありながら、その一角には「二千年前の三國史」の世界が広がっている。その、なんとも奇妙な姿は「我々日本人の企及しがたき大きさと深さと」を秘めている。やはり「『見知らぬ國』であ」り、「あまり相知つたと自惚れ過ぎた」ということだろう。

 1年ほど北京に住む予定だと語っていた友人のアメリカ人を訪ねる。「半分言わけでもするやうに」、「どうも、北京に根が生えて仕舞つてね」と。「彼は新しい亞米利加と言ふ國に生れた人の癖として、古きものに對する燃えるやうなあくがれを抱いて居た」のだ。《QED》

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