――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(13)鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

【知道中国 1919回】                       一九・七・初三

――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(13)

鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

 張謇(1853年~1926年)は1894年に42歳で科挙試験に全国トップで合格しているから、当時における最高の頭脳の持ち主(とはいえ伝統的思考ではあるが)と言える。それゆえに清朝最後の皇帝である宣統帝溥儀の退位詔書を起草したことも、なにやら頷ける話ではある。中華民国成立後、政界中枢で働いたが、その後、実業家に転じ、中国近代化の先駆者とも呼ばれる。鶴見が向かった南通は、張謇が心血を注いで建設した近代化モデル都市とでも言えそうだ。

1903年春には日本を訪れ、2カ月半ほどを掛けて長崎から北海道までを教育状況を中心に視察。当時の著名な新聞人や実業家、さらには嘉納治五郎など教育者とも交友を深めた。

張謇を訪れるに際し、鶴見は「(閻錫山の進める)自治といふことが、支那の國情の根本に立脚する政治的一特色であるやうに、經濟といふことは、支那人の國民性に根ざす重要な社會現象であ」り、じつは「渾沌たる現代支那の救匡が、必ず敎育と自治と經濟開發との三點から出發しなければならいことが、明白すぎるほど歷然たる事業である」との考えを記している。であればこそ「南通洲の一縣」で「敎育と自治と經濟開發」を実践する張謇に、是非にも会わねばならなかった。

鶴見を出迎えた欧陽予倩は日本に留学し成城学校に学び革命運動に参加したものの、「近年支那の政治に愛相つかして、役者となり、自作の戯曲を演じて、支那劇壇に新思想を鼓吹している」。じつは欧陽は日本留学中に当時流行していた新劇に興味を持ち、これを中国に持ち帰り演劇活動を始めたのである。歌劇の性質が色濃いだけに、京劇などの伝統演劇の歌詞やセリフは一般庶民には難解に過ぎる。そこで日常会話による現代劇を、さらに言うなら現代劇によって社会を変革しようとしたわけだ。これを「話劇」と呼んだ。

鶴見は続ける。「(欧陽が活動する)其の劇場は更俗劇場と言つて、矢張り張謇の南通州に於ける社會改良事業の一端であるといふことを聞くと、張氏の見識の凡ならざることに、益々驚かされるのである」。民衆に「敎育と自治と經濟開發」の重要性を学ばせるには、やはり“娯楽の王”である芝居に限るというわけだ。毛沢東が人民教育の手段として一貫して芝居を活用したのも、同じ事情である。

さて張謇と話をしているうちに鶴見が最も注意を惹かれたのは、「先生の目であった」。その目は「こうキッと見据ゑるときに、一種の壓するやうな威嚴があつた」。かくて「自分は支那で會つた凡ての人の中で、張謇先生ほど『威力』のある人を外には見なかつた」という。科挙全国トップの学識を基盤に学者として事業家として想像を絶する研鑽を重ねたからだろうと、鶴見は考えた。

先ず鶴見の「今日の支那の德育の中心は、何に置かれるお考えでありますか」との問いに対し、「それは、色々ありませう。併し、私は矢張り支那傳來の敎義たる儒敎によることがよいと考える」と。

先に対話した「北京大學の新人胡適君が『儒敎なんてものは、支那では死んで仕舞つた』と喝破し」ていたが、やはり張謇のような「隨分しつかりした人々」のなかに「儒敎を國本としやうと言ふ考えの人」がいることに鶴見は安堵する。

次は「支那の低廉なる賃銀が、全世界の勞働者の脅威となる日が來る」。「(経済問題だけからも)今日の如く無制限に人口が増殖するのであつては、いつまでも一人前の勞銀は上らない」。「(伝統的家族制度を基礎にして)子孫の増加を奨勵しては、支那人民全體の繁榮は困難ではありますまいか」と、人口問題に就いて質した。

鶴見の話を「じつと聽き乍ら」、威厳のある目が「折々こちらを、キッと見た」。《QED》

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