――「支那の國ほど近付いてあらの見ゆる國は無し」――關(7)關和知『西隣游記』(非売品 日清印刷 大正七年)

――「支那の國ほど近付いてあらの見ゆる國は無し」――關(7)關和知『西隣游記』(非売品 日清印刷 大正七年)
【知道中国 1823回】                      一八・十一・念二

――「支那の國ほど近付いてあらの見ゆる國は無し」――關(7)

關和知『西隣游記』(非売品 日清印刷 大正七年)

 

戦後日本の中国人理解を大きくネジ曲げた元凶の1人が竹内好であることは、疑いいもない事実だろう。彼は自らが信奉した魯迅の『阿Q正伝』から発想し、中国人は「阿Q精神」の持ち主だと説き続けた。

「阿Q精神」とは、「プライドだけは高いが、実力の伴わない阿Qが人々から辱めを受けた際、精神的には自分が相手より優位に立っているという自己欺瞞によって、自らを慰めるのであるが、その“精神的勝利法”こそが、中国人の悪しき国民性」(『岩波現代中国事典』(岩波書店 1999年)であるそう・・・な。

確かにそうかもしれない。だが、はたして「阿Q精神」だけで彼らの振る舞いを括れるだろうか。そうとは、とても思えない。

竹内の“獅子奮迅の努力”の結果、中国に関心を持つ多くの日本人は中国人は「阿Q精神」の持ち主だと思い込まんでしまった。いや、思い込まされたというべきかもしれない。アノ竹内センセイが仰るのだからゴモットモである。マチガイのあろうはずもない、というわけだ。かくして戦後日本人の中国人理解は完全に狂ってしまう羽目に陥った。

ここで1990年代、映画『さらば我が愛 覇王別姫』を引っ提げて世界の映画界に衝撃のデビューを果たした映画監督の陳凱歌の回想の一節を引いてみたい。

「昔から中国では、押さえつけられてきた者が、正義を手にしたと思い込むと、もう頭には報復しかなかった。寛容などは考えられない。『相手が使った方法で、相手の身を治める』というのだ。そのため弾圧そのものは、子々孫々なくなりはしない。ただ相手が入れ替わるだけだ」(『私の紅衛兵時代 ある映画監督の青春』講談社現代新書 1990年)

こう教え諭したのは、多忙だった共産党幹部の両親に代わって幼少期の彼を育てた「かつては貴族」で、「品位を保ち続けた自尊心の強い北京人」の乳母だったという。

「押さえつけられてきた者が、正義を手にしたと思い込むと、もう頭には報復しかなかった」という生き方は、はたして竹内が“我が発見”と自慢気に喧伝し続けた「阿Q精神」と、いったい、どのように重なり合うのか。やはり中国人の行動原理は、泣き寝入りと自己正当化と同義語のような「阿Q精神」だけではないだろう。

陳凱歌の乳母の教え、「どんなに天が意地悪でも、まさか漢民族をみな殺しにすることもあるめえて」(『大地』)という人生に対する居直りにも似た勁い思い、加えるに關が説いた「眞にコスモポリタニツク」な生き方――これらを綯い交ぜにしたような日々を生きるのが生中国人というものではないか。

ここで關に戻り、1915(大正)年に大隈内閣が袁世凱政権に求めた「対華21カ条要求」についての關の見解を見ておきたい。それというのも、当時の日本の上層階層における対中姿勢の一端を推測できると思うからだ。

關は自らが歩いた満蒙の広さと、日清・日露戦争のみならず「維新以來の宏謨を回顧して、東洋に於ける帝國の基礎を永遠に確定した大隈内閣の功績の偉大なるを認むるの念愈堅きを致せり」。列強の関心が主戦場である欧州に注がれ中国から離れていたからこそ、第1次世界大戦は日本にとって「天祐」だった。

關一行が「滿洲から支那に入る頃」の1917(大正6)年11月、中国における我が国の特殊権益をアメリカが認めた石井ランシング協定が結ばれているが、大隈内閣の英断があったればこそアメリカは「帝國の特殊の位地、權利の承認」に応じたのだ。「対華21カ条要求」がなければ「所謂特殊の位地も權利も不安の状態」のままであり、「対華21カ条要求」なければ石井ランシング協定は「遂に空言に等し」いものでしかなかった。《QED》

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