――「支那の國ほど近付いてあらの見ゆる國は無し」――關(4)關和知『西隣游記』(非売品 日清印刷 大正七年)

【知道中国 1820回】                      一八・十一・仲六

――「支那の國ほど近付いてあらの見ゆる國は無し」――關(4)

關和知『西隣游記』(非売品 日清印刷 大正七年)

 清朝の復辟運動、満蒙独立運動、袁世凱の洪憲皇帝即位とその直後の死、対華二十一カ条要求と反日運動など――やがては1919(大正8)年の五・四運動に収斂し、再び混乱を拡大させることになる1910年代後半の激動を、日本はどう捉え、どのように対応したのか。

以上は、その後の中国大陸における日本の振る舞いに繋がる問題だけに、『西隣游記』とは別に、いずれ本腰を入れて考えてみたい。そこで、いまは簡単に当時の日本陸軍支那通の考えを簡単に押さえるに止めておく。

 『日本陸軍と中国 「支那通」にみる夢と蹉跌』(戸部良一 ちくま学芸文庫 2016年)によれば、袁世凱に通じていた坂西利八郎は対華二十一カ条要求をめぐる交渉が最終段階に差し掛かった時点で「支那併呑論」を論じたという。

同書は『坂西利八郎書簡・報告集』に基づいて、「『支那愚民』は支配者が満洲族の清朝であろうと、漢族であろうと、善政さえ布いてくれれば構わないので、日本が統治しても大した面倒は起きないだろう」と考える坂西は、「第一次世界大戦の発生で欧米列国が東アジアをかえりみる余裕がないことに乗じて、いずれはしなければならない『支那併呑』をこの際に断行すべきだ」と主張したと記す。

同書は続けて、「日本がイギリスの圧力に屈したと見られることが、中国の日本に対する『軽侮心』『蔑視的態度』を生み、それが今後の日中関係に多大の影響をもたらすだろう」という坂西の「憂慮」は、彼だけには止まらなかった。たとえば対中政策に関して坂西とは意見を異にする青木宣純は日本側の要求が貫徹されなければ、「支那は益々増長し、我帝国の面目威厳は愈々低落して今後の対支関係の改善さるる理由も、東洋の覇者とか支那の指導など一の空言に終わるべし」と、また高山公通も「保護し指導し誘掖をなすに先だち一大威力を眼前に提示することの支那人に必要なる」と論じているとする。

総じていえることは陸軍支那通は東亜保全論という考えで共通しており、その大前提として日本の保護下に置かれた中国がある。であればこそ日本による「支那の指導」は貫徹されなければならなかったわけだ。かくして坂西の「支那は日本に頼らざれば何事も順当には行い得ざるものなりとの観念を国民に刻む」べしという考えに行き着くことになるわけだ。

この辺りになると、明治34(1901)年に上海に設立された東亜同文書院(昭和14=1939年、大学昇格。昭和20=1945年、敗戦に伴い廃止)の代表的寮歌とされる「長江の水」(大正6=1917年)に重なってくるように思える。

「長江の水天を尽き 万里の流れ海に入る」と唱いだされる「長江の水」は全部で7番まであるが、「惨たる東亜の風雲に 凄愴の眉あがるかな」、「中華千古の光褪せ むなしく空に消えてゆく」、「亡国の恨汝知るや 巨象の病篤くして 外豺狼の牙とげど 岳飛天祥逝いてより 憂国の士なし世をあげて」、「緑の大野にたゝずみて 光瞳に空高く かの星雲を仰ぐとき 天籟声あり汝立ちて 東亜の光かゞやかせ」と続き、「人生意気に感じては 功名誰かあげつらふ 見よ九天の雲を呼び 乾坤一擲高飛せん 燃ゆる血潮にいざ歌へ 歌はゞ血潮のなほ燃えむ」と結ぶ――

「病篤」い「巨象」を前に、西洋勢力という「豺狼の牙とげど」も、清国には「憂国の士なし」。そこで志ある両国の若者が「血潮」を燃やして立ち上がり、「東亜の光かゞやかせ」というのだ。

あるいは坂西に代表される陸軍支那通や「長江の水」などの考えの対極に、日本は中国の民族主義を見誤ったという竹内好などの主張が位置づけられるとも思える。《QED》

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