――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘58)「孫文の東洋文化觀及び日本觀」(大正14年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房)

――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘58)「孫文の東洋文化觀及び日本觀」(大正14年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房)
【知道中国 2098回】                       二〇・七・初六

――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘58)

「孫文の東洋文化觀及び日本觀」(大正14年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房) 

橘の道教論議では“衒学臭”が気になって仕方がないものの、「普通に云ふ『理論的な道�』の外に『通俗的な道�』」を想定し、その「通俗的な道�」を通じて中国の一般社会を理解しようとした姿勢は評価できる。

橘によれば、「中國の學者達が好んで研究するところの『哲學的道�』及び宗�家達がその本職として修業するところの所謂『道士の道�』と對立して、民間に行はるゝ通俗的な一切の道�的信仰や行爲や思想を總稱したもの」が「通俗道�」となる。

なぜ橘は「哲學的道�」「道士の道�」とは異なる「通俗的な道�」を思い立ったのか。おそらく現地で民間社会と接触を重ねるに従って、日本で学んだ道教――「哲學的道�」「道士の道�」――では理解し難い振る舞いに、日々接したからに違いない。

ここで、はたして橘の道教に対する見方を儒教に敷衍できないだろうか、と考えた。日本における伝統的な儒教理解は哲学的に過ぎたがゆえに、中国民間社会に染み込んでいる(あるいは道教秩序に編み込まれている)通俗的な儒教を見落としてしまったのではないか。毛沢東の著作を思弁的・哲学的に考え過ぎたがゆえに、一般民衆の毛沢東思想に対する接し方を誤解してしまったのではなかろうか。

あるいは日本人は中国での出来事、中国人の考えを過大評価することで、日中関係の長い歴史を特殊視し、それに拘泥するあまり中国における現実を見誤ってきたのではないか。

ここらで「通俗的な道�」という考えを宿題に留め、道教論を離れ、橘による孫文評価(「孫文の東洋文化觀及び日本觀」)に移りたい。

「大革命家の最後の努力」とサブタイトルの付けられた本論文は、「孫文氏は其の最後の努力が如何に報いられるかを見極める事を得ないかも知れぬ」と書き起こされ、「孫文氏は天津に向かふべく日本を離れると同時に、彼の長い且つ名譽ある獅子吼の生活から離れねばならぬ運命に逢着したのである。何となれば彼が天津に到着した時には其の老いたる肉體の中に不治の病を發見し、重大なる時局を眼前に控へつゝも再び民衆の前に其の含蓄多い雄辯を振ふ事が出來なくなつていたのである。(二月十日稿)」と結ばれている。

孫文が「現在革命尚未成功(現在、革命は未だなお成功せず)」の一言を遺し北京で客死したのが、1925(大正14)年の3月12日だから、橘が本論文の筆を擱いたのは孫文の死の1カ月ほど前になる。本論文が掲載された『月刊支那研究』(第一巻第四號)の出版は「大正十四年三月」であった。

こう時の流れを追って見ると、本論文執筆時の橘の耳に孫文の命数が尽きつつあることは届いていたはずであり、それゆえに熱情を込めて筆を運んだと十分に想像できる。あるいは橘は死の淵に立つ孫文に篤い思いを込めながら原稿用紙のマスを埋めた。だとするなら、本論文は橘が唱う孫文への鎮魂歌とも思える。

橘の思いが象徴的に現れているのが「大革命家」の四文字だが、なぜ、そこまで尊敬するのか。

橘に依れば「孫文氏を普通の革命家とせずして特に偉大な革命家として取り扱ふ」理由は、「第一に、孫文氏は中國の革命を單なる中國のみの政治革命、民族革命、或は社會革命と局限する事なしに、一層深く且つ廣い意味即ち全人類の文化に直接且豐富なる貢獻あらしむるところの革命でなくてはならぬと云ふ確信の上に立つて居た」からである。

このように橘は、孫文が目指したものは「廣い意味即ち全人類の文化に直接且豐富なる貢獻あらしむるところの革命」であり、三民主義を「此の確信を具體的に表現した」ものであると位置づける。だが、それは過大な評価というものだろう。《QED》

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