――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘29)橘樸「中國人の國家觀念」(昭和2年/『橘樸著作集 第一巻』勁草書房 昭和41年)

――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘29)橘樸「中國人の國家觀念」(昭和2年/『橘樸著作集 第一巻』勁草書房 昭和41年)
【知道中国 2068回】                       二〇・四・念八

――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘29)

橘樸「中國人の國家觀念」(昭和2年/『橘樸著作集 第一巻』勁草書房 昭和41年)

周恩来の一生を振り返ってみれば、「芝居的要素を持っていることを忘れ、見当違いの領域に迷い込んでしまう」というアーサー・・H・スミスの面子に対する考えの方が、橘より余ほど実態に近いと思われる。

周恩来は、「全国各族人民のよき総理」を演ずるという「自らの演劇の世界に入り込んでしま」うことで面子を保った。だが、「演技は全て現実とは何の関係も無」かった。彼にとって重要なのは毛沢東の筆頭執事という現実ではなく、とどのつまり「中国人民の偉大なプロレタリア革命家、傑出した共産主義戦士周恩来」という形式だったのだ。

やや面子に拘り過ぎたようだから、この辺で「中國の民族道德」を切り上げ、昭和2(1927)年に発表された「中國人の國家觀念」に移りたい。

橘は冒頭の「一、序説」で「近頃中國の青年又は政黨中、盛に國家思想を鼓吹する者があつて、其の氣勢が全國を風靡する樣に一部の批評家からは見られて居る」と、当時の中国の政治状況を説く。このような中国の動きに対し、「一部の日本人」は「徹底的利己主義者なる支那人」「道德の行はれない支那社會」には「國家の發生」は期待できないとする。そこで「一部の日本人」の考えが「理論上可能であるかどうか」を確かめようと、「中國人の國家觀念」を考察してみた、というのだ。

小泉信三をして「志士的な特異な学者」と言わしめ、鶴見俊輔から「右翼思想家で、日本の翼賛運動を設計した政治技師の一人」と評せられ、吉本隆明からは「西欧のデモクラシーの概念と全く同位的な意味を持つものとして創造された国体概念も持主」と記される橘の実践活動を考えるうえでも重要と思われるので、「中國人の國家觀念」を読み進めてみたい。それはまた満州事変、上海事変、満洲国建国、日華事変(盧溝橋事件)を経て「昭和20年8月15日」に続く昭和前期の激動の日中関係を探るための作業――当時の日本人が揺れ動く中国をどう捉えていたのか――にも通じるように思う。

そこで先ず橘の説く「近頃中國」の政治状況を簡単に振り返っておきたい。

 1921年にコミンテルンの指導の下で陳独秀を指導者に中国共産党が誕生する。因みに、来年は共産党建党100周年であり、翌2022年に冬季北京オリンピックが予定される。おそらく習近平政権は来年と再来年と続く2つのビッグ・イベントを挙国一致で盛り上げ、その勢いのままに2期10年の任期(2012年~22年)を超え、異例な形で3期目に突入することを目論んでいるに違いない。

 さて当時の中国で唯一の政党らしい政党であった国民党では、指導者の孫文がソ連との援助を受け入れることで党の近代化を企図した。1924年に国民党を改組し、共産党員の個人資格での入党を認める(第1次国共合作)。さらに孫文は軍閥・帝国主義打倒の路線を掲げ「連ソ・容共・扶助工農」の路線に踏み出す。この段階で、孫文は頭山満や犬養毅ら日本側支援者との連携を断った。いわば頭山や犬養らの年来の主張であるアジア主義とは一線を画し、コミンテルンの側に一歩も二歩も歩み寄ったことになる。

 孫文の北京での客死直後の1925年5月、上海の日本人経営紡績工場での労働争議をキッカケに「五・三〇運動」が全国主要都市から香港にも広がり、反帝国主義の風潮が広がる。

 1925年7月、国民党は広州に国民政府を樹立する。翌年、国民政府軍を委ねられた蔣介石が北伐に乗り出す。各地の軍閥を打倒し、北京に攻め上って全国統一を目指した。順調に北上を続け、北伐軍は1927年3月に南京・上海を制圧する。翌4月、蔣介石は北伐途上で影響力を拡大してきた共産党員と支持勢力を上海で粛正した。この「四・一二事件」が発生した同じ4月、「中國人の國家觀念」が発表される。不思議な巡り合わせだ。《QED》

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