――「『私有』と言ふ點に絶大の奸智を働かす國である」――竹内(5)竹内逸『支那印象記』(中央美術社 昭和2年)

【知道中国 1879回】                       一九・四・仲四

――「『私有』と言ふ點に絶大の奸智を働かす國である」――竹内(5)

竹内逸『支那印象記』(中央美術社 昭和2年)

 行きがけの駄賃ではないが、もう少し「公私混淆の惡弊」について続けたい。

 東京帝国大学文科大学(現文学部)助教授時代の明治39(1906)年初から約2年に亘って北京に留学した宇野哲人(明治8=1875年~昭和49=1974年)は帰国後に『支那文明記』(大正七年 大同館書店)を著すが、洛陽の県役所の目立つ場所にデカデカと且つ麗々しくも恭しく「爾俸爾禄、民膏民脂、下民易虐、上天難凌(キミ等の俸給は人民の汗の結晶だ。下々の民百姓は適当にあしらえるが、天の目は節穴じゃないぞ。権力を振り回しての不正を天は見逃さないぞ)」と書かれた看板が掲げられていたと記している。

洛陽の県役所で宇野が「爾俸爾禄、民膏民脂、下民易虐、上天難凌」を目にして以来、竹内を経て建国直後の毛沢東による「三反五反運動」、開放政策開始直後の鄧小平の苦言、天安門事件の際に若者が反対の声を上げた幹部による「公財私用」、江澤民が垂れた「永做人民公僕」、芒市政府役所に掲げられた「国家工作人員十条禁令」、政権掌握直後に習近平国家主席が掲げた「反四風運動」。そうそう毛沢東による「為人民服務」は断固として忘れるわけにはいかないが・・・こう並べてみると、彼の国においては「公私混淆の惡弊」は根絶不可能だ。ならば民族的伝統の牢固たる精華と称揚するしかないだろう。

かくしてお馴染みの林語堂に“至言”に思い至ることになる。

曰く、「中国人はすべて申し分のない善人であり、〔中略〕中国語文法における最も一般的な動詞活用は、動詞『賄賂を取る』の活用である。すなわち、『私は賄賂を取る。あなたは賄賂を取る。彼は賄賂を取る。私たちは賄賂を取る。あなたたちは賄賂を取る。彼らは賄賂を取る』であり、この動詞『賄賂を取る』は規則動詞である」――宇野が洛陽県役所を訪ねた20世紀初頭以来の1世紀余、いや正直にいうなら太古の昔から、彼の民族にとって官=幹部にとって「『賄賂を取る』は規則動詞」だった。

かくして林語堂は「公私混淆の惡弊」を根絶するための秘策として、「中国が今必要としていることは政治家に対し道徳教育を行うことではなく、彼らに刑務所を準備することである」。「官吏たちに廉潔を保持させる唯一の方法は、いったん不正が暴露されたならば死刑に処するぞと脅かしてやることである」と提言する。だが、「刑務所を準備」しようが、「死刑に処するぞと脅か」そうが、やはり屁のカッパである。

もう、これ以上は「公私混淆の惡弊」に付き合ったとしても、所詮は骨折り損の草臥れ儲けだから、竹内に戻りたい。

「古玩舗即ち骨董屋」は「世界何れもの國に散在するものである」。だが、「現代支那は、親代々の不動産までも入質して生きてゐる國である」。「整理とか統一とかの無い國である」。世界の国々とは違って「敬意を支拂ふか、或は一定の束縛を感ずる」ことは全くといっていいほどにない。「戰國史時代と少しも變らない戰亂を繰返して」いるが、「世界の人々は、この國の戰亂を常に一巻の映畫として眺めてゐる」――かく見ると「現代支那を蔑視するやうだが、實感がそれだから仕方がない」。

たしかに「この國は古くから文化を有つてゐる」し、「日本は幾久しくその御厄介になつて來たのである」が、「今は、恰も蚊帳のやうに、列強の均衡或は敵視感の自然の結果に依つて逸樂と安眠を貪つてゐる」ばかり。「無政府状態同樣なんだから國寶などゝ言う監理が行屆く譯の筈のものではない」から、「過去二十年の間にどれだけの支那藝術が世界に運ばれたらう?」。

「だが其處がまた支那だ」。「商業練達の支那人だ」。「古玩舗即ち骨董屋」がニセモノを揃えて世界の要求に応えている。「其處が支那だ」。「だが支那だ」。「あゝ支那だ」。《QED》

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