【黄 霊芝氏を偲んで(七)】—–台湾の俳聖逝く—–

【黄 霊芝氏を偲んで(七)】—–台湾の俳聖逝く—–
                 
          
             酒井杏子(さかい あんずっこ)

* 「行く末」について
 台湾の文学は先の大戦後、文学史上“失われた十年”といわれた暗黒時代に遭遇する。
 国民党政権は日本語の使用を厳禁し、時に日本語を使う者たちを生命の危機に晒した。戦前の日本語による台湾文学の作家たちは、恐ろしさから貝となって口をつぐみ、文壇は風前の灯となった。
 黄霊芝氏の無念さと嘆きのひとつは、この日本語が使えなくなり、代わりの中国語が上陸してきた間(はざま)で、母国語としての台湾語の復活と地位の確立がなかったことだ。
 そしてもう一点は、台湾という独特な風土を身にまとった作家たちが、しかも(外国語である)日本語で表現した異色の文学の成立への可能性が閉ざされてしまった点だ。
 更には言語の分断により、かつて台湾語から日本語へとチェンジした折と同様に、今度は中国語への言語習得へと、再びゼロから血のにじむような努力を台湾人は強いられたことだった。
 幸いにも、消されかけた戦前の小さな文芸の灯は、民主主義に転じようとする台湾の努力と自由な空気の中で、辛うじて日本語を母語のように使いこなす世代の台湾人によって、細流ながら伏流水となって地表に湧き出した。 俳句や和歌や川柳だった。
 黄霊芝氏が創立・主宰した台北俳句会もそのひとつであり、特に台湾の歌壇や川柳の昨今の盛況ぶりは私も聞き及んでいる。
 台湾に根づいた日本語の文学に違いない。されど、日本語の工具(ツール)であっても、台湾人がその風土を背負って創作した以上、それは紛れもない台湾文学であり台湾文化だと私は思う。
  にもかかわらず氏の顔を曇らせたのは、台湾の戦後世代は中国語が日常の工具(ツール)となり、日本語による台湾の俳句人が年々先細っていく現実だった。
 氏はこれを憂慮し、たまたま六十年代の半ばから七十年代にかけて“俳句の国際化”が謳(うた)われ出した頃、新たな試みを始めている。
 漢語による漢文俳句(略して湾俳とよぶ)の試みである。
 試行錯誤の結果、日本の俳句の核と心を残しつつ、文芸様式だけを黄霊芝流に変えた。
 それと共に湾俳の会の教室も開いたりしているが、次々と問題が出て成果は出ていないと電話で話されていたところをみると、いまだ定着はせず、会員は増えなかったようだ。
 残念ながら漢語による湾俳は、まだ確立する途上にあって、氏もまた道なかばで逝ってしまったと私は見ている。日本語の操れる台湾人の減少、それに伴う台湾での俳句人口の先細り等、氏が台湾の俳句の将来に思いを残した問題は多々ある。
 が、かの台湾のバイタリティで、いつか黄霊芝氏の遺志をつぎ、新しき若き世代を巻き込みながら、何かしらの形として残っていってほしいと私は内心期待している。
 今頃、氏はあちらの世で病に苦しめられることもなく、私の拙文の批評でもしながら、あの枯れた声を立てて「ほ・ほ・ほ」と笑っておられるであろうか。

 ・さよならはあっさりが良し春の雲   夢民(むーみん) (酒井杏子の雅号)
合掌


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