【読者便り】台湾の兄貴分たちに会いたい

【読者便り】台湾の兄貴分たちに会いたい

初めてメールいたしますI.Tと申します

普段閲覧しているサイトで、日台の絆に関する下記のような
話を見つけました

このメルマガなどで取り上げていただければ幸いです

【日台】「66年前、勤労動員で会った台湾の兄貴分たちに会いたい」80歳の岡本さんが台湾で人探し[02/01]

http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1265032270/

80歳の日本人男性、66年前の兄貴分を探す

「死ぬ前に、せめて一目会いたい」
今年80歳になる日本人男性の岡本さん(*1)は、66年前に仲間であった台湾の友人を探すため、子供と共に台湾を訪問中だ。
残念なことに手がかりはごく僅かで、一週間にわたって各地を奔走したけれども何も得られていない。岡本さんは31日、台湾を離れる前に本紙記者を訪ね、メディアを通じ、生きている間に自分の口から友人たちに「ありがとう」と
言えるようになることを期待した。

1944年春、台湾南部の師範専科学校(*2)の学生たちが埼玉県にあった
「中島飛行機」(富士重工の前身)の大宮工場に実習に来た。
当時13歳だった岡本もこの工場で手伝っていた。これら約18〜20歳の台湾の学生たちは、日本語も非常に流暢で、日本についてもよく知っていた。
岡本はすぐに彼らと仲間になった。

「彼らはまるで私の大きな兄のようでした」と岡本は語る。
当時は物資も非常に少なく、台湾の若者たちはしょっちゅう岡本に食べ物を分け与えていたという。硬いパンも軍の食事も山海の珍味のようだったという。
「今でもあの心が温かくなる感覚を覚えています」
空腹が我慢できなくなった時には、陳さんという兄貴分が岡本さんと一緒に日本の軍歌を歌い、歌って、歌って、歌っているうちに空腹ではなくなったという。

岡本は、彼らが非常に頭のいい人たちだったと話す。わざわざ日本まで来てエンジンの技術を学んだ。「毎日彼らを見つけては遊んでいました」
ある時、彼らが実験室に籠もって研究していると、岡本は窓の外からこっそり中を窺った。彼らの真剣に勉強している顔を目の当たりにして、「それ以来、彼らのような人間になりたいと思いました」という。

1945年8月6日、アメリカは広島に原子爆弾を投下し、日本中が震撼した。
岡本は泣きながら走って台湾の兄貴分たちを探した。彼らは岡本をこう慰めたという。
「負けてしまっても、お前の素質ならこれから事を成せるさ。頑張れ!」
それから数日も経たずに、台湾の青年たちは米軍のトラックに乗せられ去っていった。
お別れに先立ちみんなで抱き合って泣き、いつかまた会おうと約束をした。

まるで映画「海角七号」の友情版のようだが、この人探しは難易度がより高い。
岡本が当時まだたいへん小さかったこともあり、彼らの名前を覚えていない。
わずかにわかっているのは、日本の軍歌を上手に歌えた陳さんが嘉義に住み、日本の往年のスター、三船敏郎のようだった劉さんが台北に住み、とても仲の良かった孫さんは、日本の国民栄誉賞を獲った長谷川一夫に似ていたという。

さりとてこれだけ年月が重なり、彼らももうじき90歳になろうという頃だ。
岡本も再会のチャンスが微々たるものであることはわかっている。
しかし、心の奥底に沈んでいた思いが湧きあがって来た時、やはり自ら台湾に渡って会いたいと思ったのだった。
13歳当時の自分の写真を持ち、岡本はメディアの報道を通じて、66年前に途切れた縁が再びつながることを願っている。
(02/01 14:56)

★ ソースは、聯合報 [台湾] とかからはしょり気味に訳。
http://www.udn.com/2010/2/1/NEWS/NATIONAL/NAT5/5399393.shtml (中国語・繁体字)

★ 訳註。
(*1) 原文はフルネームだけど、苗字のみで。
(*2) 原文が「師専」なのでとりあえず訳。当時の学制からすると、「師範学校」だったはず。

追記:劉さんらしき人が見つかったとのことで、再訪計画作成中との事

関連サイトは以下

今日の韓流通信『【日台】「勤労動員で会った台湾の兄貴分たちに会いたい」〜66年後の台湾で人探し』
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=10069

台湾の新聞記事
http://www.udn.com/2010/2/1/NEWS/NATIONAL/NAT5/5399393.shtml

大日本山岳部『「〜大日本山岳部新台湾遠征〜 あの日の戦友よ、もう一度」』

http://www.sangakubu.com/


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