【真相】中華民国による台湾統治に正統性はあるのか? 日本は中国に台湾を返還したのか?

【真相】中華民国による台湾統治に正統性はあるのか? 日本は中国に台湾を返還したのか?

日本李登輝友の会メルマガ「日台共栄」より転載

 10月25日、馬英九総統は「光復節」の式典で「抗日戦争の勝利の結果、台湾は中華民国の版図
に戻った」と述べ、1943年の「カイロ宣言」などを根拠に中華民国が台湾を領有する権限があると
強調、中華民国による台湾統治の正当性を改めて主張した。

 しかし、これは70年を経ても、中華民国の台湾統治には根強い異論や反論があることを証すこと
にもなった。

 異論が出るのは当然のことだろう。昭和20年(1945年)9月2日、米艦ミズリー号上で日本は「降
伏文書」に署名するが、署名しただけで日本がアメリカの領土になったわけではないのと同じよう
に、日本が台北で降伏文書にサインしただけで領土の変更が行われ、台湾が中華民国の領土になる
ことはないからだ。

 台湾が中華民国の版図に戻ったかどうかという問題は、日本が台湾を「中国に返還」したかどう
かという問題と同じで、すでに本誌では何度か論評している。例えば平成24年(2012年) 4月8 日号
においても、この問題について下記のように述べているので、いささか長いが改めて紹介したい。

 実は、中華民国自身がその版図に台湾が戻ったことを否定し、「台湾返還」を否定していた。そ
れが歴史の事実だった。

               ◇    ◇    ◇

「台湾返還」の真実─中華民国自身が否定していた「台湾返還」
【メールマガジン日台共栄:平成24年(2012年) 4月8 日号】

 台湾を領有していた日本は大東亜戦争に敗れた後、マッカーサーが9月2日に発した蒋介石の国民
政府(中華民国)に降伏せよという「一般命令第一号」に従い、日本と中華民国は1945年10月25日
に台湾の台北市公会堂(現・中山堂)で行われた中国戦区台湾地区降伏式に臨んだ。

 この降伏式で日本は中華民国による台湾・澎湖諸島接収に応諾署名した。「台湾澎湖列島の領土
人民に対する統治権、軍政施設並びに資産を接収する」という「行政長官第一号命令」を受け入れ
る。

 するとこの日、中華民国を代表して降伏式に臨んでいた台湾省行政長官の陳儀はラジオを通じ
「台湾および澎湖列島は正式に中国の版図に再び入り、すべての土地、人民、政治はすでに中華民
国国民政府の主権下におかれた」という声明を発表する。

 実は、これが「台湾返還」という歴史捏造の真の原因だった。中華民国は台湾接収を命じられた
だけにもかかわらず、中国の領土に復帰(光復)したと宣伝したのである。これによって、台湾人
は中華民国の国籍に組み入れられた。

 その後、蒋介石の中国国民党政府は毛沢東率いる中国共産党軍との国共内戦に敗れ、1949年12
月、接収していた台湾に逃げ込み、居座らざるを得ない状況となる。大陸に帰ろうにも帰れない状
態が続く。それ故、占領軍にすぎない自分たちが台湾に居座る理由を失ってしまうため、「返還」
に固執しなければならなくなった。つまり、中華民国に都合のいい勝手な宣伝が「台湾返還」を定
着させてしまったのだった。

◆サンフランシスコ平和条約と池田首相答弁

 ところが、中華民国が宣伝するように、日本が台湾を1945年10月に中華民国に返還していたとす
るなら、その後、日本は1951年9月8日に署名したサンフランシスコ平和条約において台湾・澎湖諸
島を放棄することになるが、なぜ放棄できたのか説明がつかなくなる。

 日本がアメリカをはじめとする連合国諸国と署名したサンフランシスコ平和条約は、その第2条
b項において「日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」
と謳っていて、これをもって日本は台湾と澎湖諸島を放棄した。

 このサンフランシスコ平和条約では、日本は台湾と澎湖諸島しただけで、その帰属先については
述べられていない。

 では、その帰属先を決定する権限はいったいどこにあるのだろう。

 サンフランシスコ平和条約の日本側の全権団の一人に池田勇人・大蔵大臣が入っていて、後に首
相に就く。

 その池田が首相在任時の昭和39年2月29日、衆議院予算委員会において、台湾の法的地位につい
て重大な発言をしている。その発言を下記に紹介してみたい。

≪サンフランシスコ講和条約の文面から法律的に解釈すれば、台湾は中華民国のものではございま
せん。しかし、カイロ宣言、またそれを受けたボツダム宣言等から考えますと、日本は放棄いたし
まして、帰属は連合国できまるべき問題でございますが、中華民国政府が現に台湾を支配しており
ます。しこうして、これは各国もその支配を一応経過的のものと申しますか、いまの世界の現状か
らいって一応認めて施政権がありと解釈しております。したがって、私は、台湾は中華民国のもの
なりと言ったのは施政権を持っておるということを意味したものでございます。もしそれ、あなた
がカイロ宣言、ポツダム宣言等からいって、台湾が中華民国政府の領土であるとお考えになるのな
らば、それは私の本意ではございません。そういう解釈をされるのならば私は取り消しますが、私
の真意はそうではないので、平和条約を守り、日華条約につきましては、施政権を持っておるとい
うことで中国のものなりと言っておるのでございます。≫

 つまり、台湾の帰属先はカイロ宣言やポツダム宣言で決められているのではなく「連合国できま
るべき問題」だと答弁し、台湾の帰属先は未定だと述べたのだった。

 また、この国会答弁のとき日本は中華民国と国交を結んでいたが、「台湾は中華民国のものなり
と言ったのは施政権を持っておるということを意味したもの」とも答弁している。

 つまり、日本が1945年10月の降伏式で受け入れた「行政長官第一号命令」に記す「台湾澎湖列島
の領土人民に対する統治権」とは施政権のことだった。

 施政権とは通常、立法・司法・行政の三権を指している。すなわち、日本は中華民国に施政権を
移譲しただけで、領土は「返還」していなかった。だから、サンフランシスコ平和条約に署名した
連合国諸国は、日本が条約締結時まで台湾を領有していたことを承認していたがゆえに「放棄」も
成り立ったのだった。

◆「台湾返還」を否定していた中華民国

 実は、このサンフランシスコ平和条約を、中華民国自身が平和条約発効直前に日本と調印した
「日華平和条約」で承認している。

 中華民国は中華人民共和国とともにサンフランシスコ講和会議に招請されなかったため、日本と
の戦争状態を「日華平和条約」の締結によって終了させた。調印は、サンフランシスコ平和条約が
発効する7時間30分ほど前の1952年4月28日に台北で行われている。

 日華平和条約の第2条には以下のように定められていた。

≪日本国は、1951年9月8日にアメリカ合衆国のサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和
条約(以下「サン・フランシスコ条約」という。)第2条に基き、台湾及び澎湖諸島並びに新南群
島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄したことが承認される。≫

 中華民国がサンフランシスコ平和条約を承認したということは、この平和条約調印時まで日本が
台湾を領有していたことを連合国諸国が認めたのと同様に中華民国も認めたことになる。つまり、
中華民国に台湾を返還していなかったことを中華民国自身が認めたことに他ならない。これは、中
華民国自身が「台湾返還」を否定したことになる。

 また、池田首相が答弁したように「施政権」の移譲であったことを中華民国自身が認めたことに
なるのである。

 したがって、日本はサンフランシスコ講和条約に基づいて台湾を放棄しただけであり、「中国へ
の返還」は行っていない。それは、同条約の締結国であるアメリカやイギリスなど連合国の見解で
あるだけでなく、中華民国ですら日華平和条約を通じ、その取り極めを承認していたのである。

 それでも中華民国は自らの台湾統治を正当化すべく、馬英九総統のように何度も捏造した歴史を
繰り返し述べてきている。一方の中華人民共和国も、中華民国の承継国家として台湾を手中に収め
るべく、これまで「1945年の中国への返還」を主張してきた。

 つまり、馬英九総統は中華人民共和国の主張を容認する発言を繰り返していることになる。中国
による台湾併呑に助け船を出している、危険な主張なのだ。

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台湾「光復」70年式典 馬総統「抗日」を強調
【産経新聞:2015年10月26日】

 【台北=田中靖人】台湾の馬英九政権は25日、日本による台湾統治の終了から70年を記念する式
典を台北市内で開いた。馬総統は「抗日戦争の勝利の結果、台湾は中華民国の版図に戻った」と述
べ、台湾独立派が主張する「地位未定論」を牽制(けんせい)した。

 式典は、1945年のこの日、台湾方面の旧日本軍の降伏式典が行われた旧台北公会堂で開かれた。
当時の中国国民党政権が同日に台湾への主権回復を宣言したため、10月25日は「台湾光復節」とさ
れている。

 馬総統は、戦後の台湾統治の正当性を強調。「台湾人民の抗日戦争は台湾割譲の1895年に始ま
り、大陸(中国)よりも42年早い」と述べ、改めて日中戦争と日本統治への抵抗運動を同列に位置
づけた。日本の統治に抵抗した人々の子孫ら55人も招待された。

 台湾人の多くは日中戦争当時、日本統治下にあった人々とその子孫で、馬政権が今年、「抗日戦
争勝利70周年」の記念行事を次々と行っていることには歴史観の違いから批判がある。

 一方で馬総統は、日本が残した「若干の建設は評価すべきだ」とも述べ、日本側に一定の配慮も
示した。


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