【産経山本台北支局長に異議有り】台湾人は漢民族ではない

【産経山本台北支局長に異議有り】台湾人は漢民族ではない

            「台湾の声」編集長 林建良(りんけんりょう)

3月20日付の産経新聞の第1面に掲載された台北支局長・山本勲氏のコラム「【東亜春秋】深化する台湾の歴史認識」の中、本省人を(日本統治時代から台湾に住む漢族)と表現していますが、これは全く誤った認識であります。参考のため、拙文を再度掲載させて頂きます。

 台湾人は漢民族ではない

■台湾人と中国人は同じ民族と見る日本人

 台湾という国を、日本の皆さんは知っているようで知らない。どうせ中国と同じ民族なのだから仲良くやればいいじゃないか、と言う人が少なくない。一般の日本人ばかりでなく、台湾について勉強している学者や研究者でさえ、同じようなことを言う。つまり台湾人は、二パーセントの原住民、一三パーセントの外省人(蒋介石と一緒に台湾にやってきた人間)、残り八五パーセントの本省人(戦前に台湾に移住してきた人間)なのだから、九八パーセントはもともと漢民族ではないか、と。

 これは誤解でしかないが、ほとんどの日本人が台湾人は漢民族であると考えている。実は、なによりわれわれ戦後の台湾人が「お前たちはもともと漢民族である中国人なのだ」という教育を受けてきたのだから、日本人がそう思うのも致し方ない面がある。しかし、これは間違いなのである。

 台湾が世界史に登場してきたのはつい最近で、一七世紀になってからである。では、それ以前の台湾にはほんの一握りの人間しか存在していなかったのかというと、そうではない。
台湾が歴史に登場したのは一六二四年で、オランダがアジアとの貿易をするうえでの中継点として登場した。ご承知の通り当時のオランダは、非常に航海技術が優れていて、貿易が盛んだった。今の会社の原型といわれる東インド会社も彼らによってつくられた。当時の彼らは、西洋のものを日本や中国に売り、あるいは東洋のものをヨーロッパに売ったりしていた。オランダはその中継点として、台湾と中国のあいだにある島で、大きさは新潟県の佐渡島の五分の一ぐらいの澎湖島という島を選んだ。

当時の明朝はその島をめぐってオランダ軍と戦い、結局は和解したが、明朝の条件としては、澎湖島は返してもらう、その代わりに台湾をあげるからというものだった。台湾は中国にとって、そのくらい無用のものだった。そして一六二四年、オランダ人が台湾を統治することになる。それが台湾人が体験した初めての国家としての権力であった。

 著名な統計学者である沈建徳氏の著書『台湾常識』によれば、当時の台湾の人口は五十万人だったという。今から十年ほど前までは、台湾では原住民のことを「山胞」、つまり山に住んでいる民族と呼んでいた。しかし、確かに三分の二は山でも、三分の一は平野である。住みやすい平野に人が住まなくて、山にばかり住んでいるなどというおかしなことはない。実は、当時の台湾人のうち二十万人は山に、三十万人は平野に住んでいたのである。
余談だが、当時の台湾でいちばんの資源は鹿だった。台湾産の鹿の皮がとても綺麗だったので、日本の武士は好んで兜の飾りにしていたという。

■台湾に来たがらなかった中国人

 オランダ人は台湾を統治するために、中国から労働者を輸入する。その数は七千人から八千人で、五十万人の中の八千人だ。人口の一、六パーセントにすぎない。

 鄭成功が清に負けて台湾に逃げてきたのが一六六一年であるから、オランダの統治は三十八年間続いたことになる。今、台湾人が中国人の子孫であり後裔であるという根拠は、鄭成功がたくさんの中国人を連れて海を渡ってきたことに求められている。しかし、一六六一年の台湾の人口は六十二万人であり、中国からやってきた鄭成功一族と彼の軍隊はその中のたった三万人なのである。

 その一族が台湾を統治したのは二十二年間で、清朝によって滅ぼされた。当時の台湾の人口は七十二万人になっており、そのとき清朝が連れてきた軍隊はほんの数千人だ。なぜ中国人が台湾に行きたがらないかというと、当時の台湾はまさに瘴癘の地だった。瘴癘とは風土病のことだが、マラリアをはじめ猩紅熱、腸チフス、百日咳など、ありとあらゆる伝染病が台湾に蔓延していた。「台湾に十人行けば七人死んで一人逃げ帰る。残るのはせいぜい二人」という中国の諺が残っているほどだ。

 実際、清朝は二百年のあいだ台湾を統治するが、その間、統治者は三年交替だった。三年交替の統治者で生きて中国に帰れたのはほんの数人、十人を超えていない。もちろん統治者としてやって来るわけであるから、いちばん良い食事、いちばん良い環境、いちばん良い住まい、つまりいちばん良い衛生状況を保てたはずだったが、その彼らがほとんど台湾で死んでしまうほど台湾の風土病は怖かった。

 そして、一八九五年に日本が台湾を領土としたときの人口は二百五十万人だったが、清朝出身者のほとんどが中国に引き揚げている。だから、このように歴史をたどってみれば、われわれ台湾人が漢民族であるという認識の間違っていることがよくわかるのである。

■税金のために漢民族になろうとした原住民

 清は、いろいろな階級に分けて台湾人を統治した。漢人、つまり漢民族しか苗字を持っておらず、原住民のことは、野蛮人を指す「蕃」を使って「生蕃」「熟蕃」と呼んだ。この戸籍制度は、日本の統治時代まで使われた。

熟蕃というのは漢民族と一緒に住んでいる、人を殺さない野蛮人を指す。山に住んでいる台湾人は首を狩る。そのことを我々は「出草」と言う。自分が一人前の男であることの証明として人の首を狩り、狩った首はお飾りとして自分の家の前に棚を作って並べておく。この首の数が多ければ多いほど立派な男ということになる。私のなかでときどき血が騒ぐのは、その遺伝子のせいかもしれない。

 生蕃には重税が課せられ、熟蕃はやや軽い。漢人はいちばん軽い。そうすると、熟蕃は競って漢人になろうとする。そこで、当時の清朝は「では、あなたの名前は林にしましょう。あなたは王にしましょう」と苗字を与えた。苗字のない原住民は競って苗字のある漢民族になろうとしたのである。生蕃もできるだけ熟蕃になろうとした。だから、台湾人は漢民族であるというのは統治者の政策によってつくられた虚像でしかない。要は名前を漢人風にしただけのことであり、表面だけを見て漢人と言っていたのである。

■血液学からも証明

 台湾の人口は、一六二四年の五十万人から一九四五年にはざっと六百万人になった。環境などを考慮すると、その成長率は非常に合理的な数字である。清朝統治の二百年間には、台湾に渡るなという禁止令があった。それは、台湾が非常に長いこと海賊の巣になっていたので、人が増えることは好ましくなかったからで、できるだけ台湾に渡らせないようにしようというのが清の姿勢だった。

日本が統治した当時の人口は二百五十万人で、もちろん日本統治の五十年間に中国から台湾に移住してきた中国人はほとんどいなかった。正常な人口の成長で、五十年間で六百万人になった。一九四五年に台湾から引き揚げた日本人が四十万人いたから、総数としては六百四十万人ということになる。その中にもし中国人がいたとしても、ごく僅かなのだ。
血液学的調査にもそうだし、台湾の馬偕記念病院の血液学の教授である林媽利先生は人間のリンパ球の遺伝子を調べて、すでに台湾人と漢民族の遺伝子がまるっきり違うことを証明している。

台湾人は漢民族ではない。

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【東亜春秋】台北支局長・山本勲 深化する台湾の歴史認識

2010.3.20 03:18
http://sankei.jp.msn.com/world/china/100320/chn1003200319000-n1.htm

複雑な台湾の歴史を総合的、客観的にとらえ直し、街造りや地域振興に生かそうとの動きが台湾で広がりつつある。台湾はオランダ、清朝、日本、中華民国と統治主体が入れ替わり、民族集団ごとに歴史認識や価値観が大きく異なる。しかし李登輝政権時代に始まった台湾中心の歴史教育が浸透するにつれ、戦後世代を中心にこうした動きが強まってきた。この変化が今も続く台湾内の激しい政治対立を乗り越える契機となるよう期待したい。

台湾東北部の宜蘭県員山郷で、太平洋戦争期の日本軍や地元民の活動を紹介する記念館が来月中にも完成、オープンする。宜蘭は日本統治時代に西郷隆盛の息子、西郷菊次郎が県知事を務めたことなどで、日本とのゆかりも深い。木造の長官邸など多くの日本時代の建物が大切に保存されている。

太平洋戦争では特攻隊の基地となり、沖縄戦では90機余りの陸・海軍の特攻隊機がここから米艦攻撃に飛び立った(台湾・東海大学の蘇睿弼助教授の研究による)。米軍の空襲から飛行機を守るための掩体壕(えんたいごう)や、通信指揮所などの軍事遺跡も数多く残されている。

戦争記念館は員山郷にある掩体壕をドーナツ状に囲む形で建てられた。館内には清国が台湾を日本に割譲した1895年から終戦までの年表や、出撃前の特攻隊員の写真、軍事施設建設に動員された地元住民の多くの証言や地図などを展示。当時を彷彿(ほうふつ)とさせる。

若き特攻隊員を見守った地元民の証言は哀惜に満ちている。出征前の特攻隊員が母親から「これが今生の別れなら、(亡き後は)白い蝶々となって会いに帰ってきておくれ」と告げられた、といった話も数多く残されている。

記念館建設に奔走した建築デザイナーの黄聲遠さん(47)は掩体壕を取り壊す計画を新聞で知り、県長に直談判するなどして10年がかりで完成にこぎつけた。

蒋介石・蒋経国時代の歴史教育はもっぱら中国大陸の歴史で、日本時代を含む台湾史はほとんど教えられなかった。

日本とかかわりの深い郷土の歴史を「広い心で、ありのまま理解する場を作りたい」と黄さんは考えた。さらに「宜蘭各地に散在する軍事・文化遺跡を自転車道でつなぎ郷土理解や観光誘致に役立てる」(同)構想もある。