【現地レポート】台中日本人学校と李登輝総統(2)

【現地レポート】台中日本人学校と李登輝総統(2)   

メルマガ「遥かなり台湾」より転載

    

 台中市内が見渡せる小高い丘に、中部科学園区と隣接し周囲には田園風景が残っている所に白亜の建物台中日本人学校(以下台中校)があります。この校舎は台湾大地震のあとに再建されたもので、当時の李登輝総統(以下李総統)が深くかかわっているのです。
そのいきさつについては篠原誠先生(1917〜2004)の地震レポートに記されています。先生は自称「日本国籍の台湾人」と公言しているほどで、自分の故郷である台中が地震に遭ったというので自分の目と足で被災地を訪ね克明に記録を残されたのです。台中校に関して下記のように記していました。

 台中到着後まず日本人学校を訪問した。太平市にあったもとの校舎は被害が大きく使用不能で、太原街(もとの北屯)の幼稚園を借りて授業を行っていた。中部地区からの日本企業の撤退が相次いで日本人の数も減り、学校は小中学校あわせて百十四人、教職員十五人とのことであった。校長の江原要七氏にお会いし、これまでの経過をつぶさに聞くことができた。
 
氏の自宅は、太平市の高層マンションの十四階である。地震の時の様子を尋ねると、
「もう駄目だ」と観念したという。

 当時の学校の写真を見せてもらったが、校舎は壁がくずれて大きな亀裂が入り、職員室の中の器物なども壊れて散乱していた。運動場にも地割れがあり、校舎は危険で使用できない。はじめは学年毎に生徒の家に集まって自習していた。早急には授業再開の目処も立たず、帰国した子もいるという。学校の再建をどうするか、それまでの間の仮校舎をどうするか、しかも、急を要することだけに、校長には頭の痛い問題である。

 幸いにして、北屯のエンジェル幼稚園の建物を借りることができた。この幼稚園に日僑班があり、日本人の園児が通っている。この幼稚園の日本人卒業生が日本人学校に入学する縁であるという。それにしても並々ならぬ好意である。校長室まで用意され、日本人学校の生徒たちは学年毎に一教室を与えられていた。日本人学校校舎の入り口には「台中日本人学校」と大書した横額が掲げられ、回りを飾りつけてある。幼稚園の先生たちの手による奉仕である。移転の日には園児全員が並んで拍手して迎えてくれたという。周りの人の温かい思いやりに、校長は心から感謝していた。授業の開始は10月11日であった。

10月7日、李登輝総統の視察があるとの知らせに、校長は出来るだけ生徒を集めて迎えた。迎えに出た校長は総統に「江原さん。たいへんだったね。」と声をかけられた。いきなり自分の名前を呼ばれて驚いたという。訪ねる前に名前をたしかめたのであろう、気配りの細やかな政治家である。「生徒に声をかけていただきたい」という校長の頼みにも気軽に答え、生徒の中に入って一人一人の手を握り励ましたという。学校の用地問題に悩んでいた校長は、一校長の身分でと躊躇ったが、思い切って「ご配意をお願いしたい」と陳情した。総統はこれにも「わかった」と頷いた。がそれが即座にかなえられるとは思ってもみないことだった。総統の鶴の一声で用地問題は解決した。

 帰国してから中華週報に掲載されている李登輝総統の震災日記を調べてみた。この十月七日の日記を見ると、当日は南投県の日月潭や魚池を視察した多忙な日程である。帰途、時間を割いて日本人学校に立ち寄っている。次のように記してある。

「午後五時頃、太平市の日本人学校を視察。同校の被害状況は非常に深刻だが、教師と生徒、父母は冷静に対処している。かれらは、再建問題について協力を求めている。黄昆輝・総統府秘書長(現国民党秘書長)に対し、ただちに台湾糖業公司と連絡を取り、同校の移転地問題の解決に協力するよう指示する」

元の学校の周辺にも土地はあった。だが高価な宅地価格で手がでない。畑地を求める他はないが、台湾も農地を宅地に転用するには審査機関の認可が必要で、これにはかなりな日数がかかる。大雅の候補地は畑地であったが、総統の指示で一度の申請で宅地転用が許可された。用地取得の目処がつき、ことはとんとん拍子に運んだ。教師の派遣は文部省だが、学校の所管は外務省である。予算五億円のうち70%は国庫が負担するが、30%は地元の学校負担となる。国庫分は来年度予算として計上され、すでに国会を通過、地元負担金についても台湾の日本企業の協力を得て調達できた。新校舎は本年末には完成の予定である。それまでの間のプレハブ校舎は三月中に完成し、新学期はこの校舎で授業が実施できるとのことであった。江原校長は今年の三月で帰任との事であるが、大任を果たし心置きなく帰国できると胸中を語った。李登輝総統をはじめ、地元台湾の人たちの暖かい支援と励ましを、心底から感謝していた。

(注)江原校長が離任する前日の3月21日に新校舎地鎮祭が行われました。

新校舎の建設はその後着任された福原輝幸校長に引き継がれました。
再建校舎の建設は2000年(平成12)5月5日から始まりました。6800坪の土地に鉄筋
二階建て三棟からなり延べ床面積約4400平方メートル。体育館、プールなども完備しました。再建校舎は2000年12月末に完成し、翌年2月12日からこれまでのプレハブ校舎から新校舎で授業を再開できたのです。

台中校の正門右側に李登輝総統の自筆による「台中県日僑学校、李登輝」の表札があります。この表札のオリジナルは額に入れられ入口ホール右側に掲げられています。
福原校長は3年間の台中校再建に関わったことや台湾での生活された様子を日記につけたものを帰国後一冊の本にまとめられました。以下その本によって李総統を記述した箇所を紹介します。

表札のオリジナルとなる半紙が届けられた日については次のように記してありました。

「学校に差出人の住所があって差出人の記載のない茶封筒の手紙が届きました。封を切ると「台中県日僑学校」「李登輝」と毛筆で書かれた横2メートル縦60センチの習字用の半紙でした。これにはびっくりです。というのは過日、私とS運営委員長と二人で考えたもので、断られても仕方ないが、一度お願いだけしてみようと依頼文を送付していたからです。驚きの言葉以外の何物でもありませんでした。半紙は早速職員室の黒板に貼り、眺めていましたところ、職員室に残っていた派遣教員は一人ずつ記念撮影をするではありませんか。台湾の近代化に貢献し、世界の歴史に名を残す人物です。この人の自筆を学校の表札として掲げるのです。なんとすばらしいことではありませんか。しばらくは心うきうきの時間でした。」と記してありました。その時の校長先生の気持ちが手に取るようにわかります。

2001年5月4日の校舎再建記念式典を前に案内状を李総統に出しましたが、「案内状を戴きました。校舎が再建されおめでとうございます。当日は残念ながら李総統は台湾におらず、欠席させていただきます。後日必ず学校を訪問させていただきます。」と連絡がありました。

李総統がその約束通り学校を訪問してくれたのは翌2002年9月20日震災3周年式典でした。李総統に来校を仰ぎ、生徒たちに「台湾について」話をしていただきました。その中で総統は「台中の地で、日本を理解し、台湾を理解し、世界の子供として学習に励んでほしいこと等や現在までの台湾の歴史をかみ砕いて話されました。そして最後に「台湾は台湾であって、中華人民共和国の一部ではないこと」を力説されたのでした。

最後に、皆で歌を3曲歌いました。一つは日本の歌「ふるさと」です。もう一つは台湾の歌「モーリーファ」です。そして最後に世界の歌「上を向いて歩こう」です。李総統は、3曲とも口ずさんでいました。

李登輝総統を台中日本人学校再建のお礼と感謝をこめて学校に招待し、訪問していただくという宿題は、ここに2年がかりで達成することが出来ました。

もうひとつ忘れてはならないことは、運動場に台中県及び秀山村の人たちが、日本人学校再建記念に「東屋」を寄付してくれたことです。また再建に当たった建設業者(中鹿営造)も運動場に東屋を寄付してくれました。

当時を回想して福原校長は「あの時は、台湾に住んでいる日本人を始め、台湾の人々また世界中の人々から支援・援助をいただきました。本当に頭の下がる思いでした。」と仰っておりました。

更に2007年台中校30周年記念の時にも「百年樹人」とかかれた色紙を寄せて戴き、記念誌の第一ページを飾ることが出来たのでした。

台湾には「雪中送炭」(困っている人を助けてあげる)と飲水思源(受けた恩を忘れない)という言葉があります。この言葉を知った時とてもいい言葉だと思いました。単なる言葉だけでなくその精神が即座に行動で示されることがすごいことです。去年3月の東北大震災の台湾から多額の義援金が寄せられたのは、99年の台湾大地震の時に日本から大変助けて頂いたからそのお返しをしたいとの思いから募金活動に参加した人が多かったのです。

台中校の新校舎の再建の裏には李総統をはじめとして日台のみならず世界中の多くの人たちの支援や援助があったからであり、台中校の再建された時のいきさつを後世の人たちに伝えたく記してみた次第です。


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