【王育徳の台湾語講座】台湾人が堂々と「民族の魂」としての母語を使える国に

【王育徳の台湾語講座】台湾人が堂々と「民族の魂」としての母語を使える国に

日本李登輝友の会メルマガ日台共栄より転載
  

 台湾独立運動の創始者として知られる王育徳(おう・いくとく)博士は、明治大学など
で「台湾語講座」を担当し、『台湾語常用語彙』(永和語学社、1957年)、『台湾語入
門』(風林書房、1972年)、『台湾語初級』(日中出版、1983年)を著し、1985年に亡く
なられてから『台湾語の歴史的研究』(第一書房、1987年)が出版されている。

 このたび、『王育徳の台湾語講座』が東方書店より復刻された。その「序文」は、王博
士の次女で台湾独立建国聯盟日本本部委員長をつとめる王明理(おう・めいり)さんが書
き、王博士の外孫に当る王明理さんの娘さんで、『トラベル台湾語』の著書もある近藤綾
(こんどう・あや)さんが「前書き」を担当、そして「解題」は明海大学准教授の中川仁
(なかがわ・ひとし)氏による。

 王明理さんの「序文」に、王博士がなぜこの本を執筆したかの背景などが詳しく述べら
れている。研究というものはかくありたい、本はこのような精神で書かれなければなら
ぬ、と強く訴えかけてくる。そして、台湾独立運動とはなにかも明示されている。下記に
その全文を紹介したい。

 なお、王育徳自伝『「昭和」を生きた台湾青年』(草思社、2011年刊)も併せてお勧めた
い。この本で、戒厳令下の真っ只中、李登輝元総統がまだ台湾大学助教授だった1961(昭
和36)年6月、日本に住んで台湾独立運動を始めた王育徳博士を訪ねていたことが出てく
る。衝撃的な事実だ。

・書 名:王育徳の台湾語講座
・体 裁:B5判、並製、ISBN978-4-497-21217-7
・版 元:東方書店
・定 価:2,100円(税込み)
・発 行:2012年7月25日
 http://www.toho-shoten.co.jp/toho-web/search/detail?id=4497212177&bookType=jp

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序 文

                          近藤(王)明理

 「台湾語講座」は、父王育徳が、1960年4月から1964年1月まで雑誌『台湾青年』に連載
したものである。2000年に『王育徳全集・全15巻』(台北・前衛出版社・2002年完結)の第3
巻として、中文に翻訳されて出版されたが、日本においては、長年ほとんど人の目に触れ
ることがなかった。それがこの度、一冊にまとめられて出版される運びとなったのは、明
海大学の中川仁先生の御尽力によるものである。これまで十分に活用されてこなかった
「台湾語講座」だが、書かれてからすでに50年経った今でも、台湾語や台湾社会の現状及
び将来に関心を持つ人には、少なからず参考になるところがあると思われる。この小論文
に再び日の目を見せて下さった中川先生に、泉下の父に代わり、心より御礼申し上げたい
と思う。

 この「台湾語講座」は、言語学の研究者や台湾語学習者向けに発表されたものではな
く、『台湾青年』という政治的雑誌に掲載された点に大きな特色がある。つまり、一般の
読者に対して、台湾の独立を目指す者が、台湾語という言語を解き明かすことで台湾人の
アイデンティティに光を当てようとしたところにその精神がある。

 なるべく分かりやすく述べようと心掛けたようだが、それでも熱が入るあまり、政治的
雑誌に載せるには、いささか専門的すぎたきらいがある。それも、常に真摯に物事に取り
組んだ王育徳の性質の表れの一端であると思われる。

 一つの言語を考える時、その民族と切り離して考えることはできない。言葉は民族の魂
であると王育徳は考えていたが、台湾人は台湾語を為政者に奪われた民族である。

 1945年、終戦によって日本の植民地統治が終わり、これからは台湾語を自由に使える時
代がくるだろうという王の期待もむなしく、中華民国(国民党)軍に占領された台湾は、
強制的に中国語(北京語)を「国語」と定められた。1944年には就学率70%を超えていた
台湾人にとって、リテラシーは日本語、話すのは日本語とそれぞれの母語(台湾語、客家
語、先住民族諸語)であったが、その両方を奪われ、再び北京語を習得することを課せら
れた600万人の台湾人の苦痛と悲哀は、他にあまり例を見ない。

 この環境において、王育徳は彼なりの抵抗を実践した。1945年秋から4年間、台南一中で
歴史と地理を教えたが、校長の目を盗んでは生徒たちに台湾語を使って授業を行い、台湾
人精神を鼓舞した。その傍ら打ち込んだ演劇活動でも、台湾語による巧みなセリフを用
い、劇中で政府を皮肉って、観衆の喝さいを浴びた。この時、自分の書いた台湾語の脚本
に、学生たちが日本語のカタカナでふり仮名をふるのを見て、台湾語の表記法の必要性を
痛感したのが、のちの台湾語研究の一つの動機になった。しかし、こういうささやかな自
由も二・二八事件までであった。

 二・二八事件とは、1947年の2月27日夜に発生した些細な事件をきっかけに、全島に広が
った行政当局に対する激しい抗議活動と、それを弾圧するために中国人側が行った凄惨な
大虐殺のことである。将来を担うべき知識階級を中心に、殺された台湾人は3万人にものぼ
る。育徳の兄、王育森は、終戦時まで京都地検の検事を務め、帰台したのち新竹市の検察
官になったが、やはりこの時に犠牲になった。最愛の兄を失った育徳は、兄とかわした
「将来、台湾のために役に立とう」という約束を兄の分まで果たそうと決心したのである
(この間のいきさつは王育徳自伝『「昭和」を生きた台湾青年』(東京・草思社・2011年)
を参照されたい)。

 二・二八事件の後、政府は反政府的な人間を捜しだし、長期刑や死刑に処する白色テロ
を徹底した。王育徳も、劇中で政府を批判したことから目をつけられ、1949年7月、捕まる
寸前に台湾を脱出し、日本に渡ることを余儀なくされたのである。この時、王は25歳、台
南に置いてきた妻と生後10か月の娘は、一年後、呼び寄せることとなった。

 しかし、これは後の王の生き方が示すとおり、単なる故国からの逃亡ではなく、むしろ
台湾のために自分の人生を捧げるための第一歩であった。

 日本に着いてすぐにしたことは、東京大学への復学手続きであった。やっと手に入れた
自由な環境を勉強に使い、台湾語の研究をしたいと考えたのだ。当時の心境をのちに「台
湾語の研究」と題したエッセイ(遺稿一未出版)で次のように述べている。

「台湾語の研究は、その成果が台湾語の墓碑銘になろうと、頌徳碑になろうと、わたしが
やる以外に人がない。台湾には台湾語をよく知り、関心をもつ人が少なくないが、台湾語
を学問的に研究できる環境でない。わたしが知っている砂漠のような環境は、ますますひ
どくなりこそすれ、改善されることはない」

「東大では直接台湾語を教える先生はなかった。これは当然予想できたことであり、私は
少しも失望しなかった。私は北京語を勉強しなおした。北京語を勉強すると、その音韻
論、文法論がよくわかって、台湾語に適用できた。しかし、北京語も言語の一つに過ぎな
いから、基礎となる言語学を勉強する必要が痛感された。そのため、私は三階の言語学研
究室で、服部四郎先生から、一般言語学、さらに音声学を勉強した。台湾語の勉強が、北
京語、そのほかの中国方言、広東語、客家語、蘇州語の研究に寄り道し、さらに、一般言
語学、音声学になり、さらに言語年代学になった。これすべて台湾語のための準備工作で
ある」

 学部の卒論は「台湾語表現形態試論」(1952年)、修士論文は「台湾音系序説」(附「ラテ
ン化新文字による台湾語初級教本草案」)(1954年)であった。続いて博士論文では、語彙・
音韻・文法の3部からなる「台湾語の研究」を書くことを決め、まず語彙の部分を書きあげ
て、『台湾語常用語彙』(東京・永和語学社・1957年)として出版した。台湾人の手になる
初めての辞書であった。その出版費用を捻出するために、苦心して手に入れた家を売り払
い、一家は都心から離れた場所で借家住まいをすることになった。

 1960年2月28日、王は台南一中の教え子たちと共に「台湾青年社」を創立し、『台湾青
年』を発行した。『台湾青年』は台湾独立運動の理念を訴える機関誌で、内容は台湾内部
の情報と解説、主張、教養の三本立てとしたが、教養の部分として書いたのが、この「台
湾語講座」である。

 台湾独立について、王には明確なビジョンがあった。中国人(国民党政府)による植民
地体制から独立し、台湾人による民主主義国家を建設すること、そしてそれは小さな社会
福祉国家で、台湾人が堂々と母語を使える社会であった。王は、台湾の将来の国語をどう
するかについて、その当時、誰よりも深く考えていたと思われる。

 その一例が王の選択した台湾語の表記法の変遷である。台湾語の表記法を早く確立した
いと考えていた王は、まず教会ローマ字表記を学んで、その欠点を知り、王式ローマ字
(第一)を考案した。それを使って書いたのが『台湾語常用語彙』であった。さらに改良
を加えて王式第二ローマ字を考案し、本稿「台湾語講座」を書いた。そこまでしながら、
後に、自説を捨て、すでにある程度人口に膾炙している教会ローマ字を使うことを採択し
た。学者としてのプライドより、将来、台湾人が実際に使用する際の利便性を優先したの
である。

 王は、「研究のための研究」をしたのではなく、自分の学問も含め、時間や労力、知
識、人脈など、自分の持つすべてのものを台湾のために捧げることに、一切、躊躇しなか
った。

 もし今、王が生きていたら、大多数の台湾人のリテラシーとして北京語(台湾華語)が
浸透している状況を鑑みて、台湾語をどう位置付けるか、本稿を書いた頃とはまた別の思
索を巡らせたことだろう。

 王は、一人の人間の中に、言語学者として地道に研究する面と、台湾独立を目指す革命
家として妥協を許さない強固な面との二面性を持っていたように見えるが、この二つは切
り離して考えることのできないものであり、台湾への深い愛情として王育徳の中では融合
していたのである。

 この台湾語の研究も、台湾独立運動も、日本に亡命することによって可能になった。そ
のことを父はよく自覚しており、終生、日本への感謝の気持ちを忘れなかった。

 父が心から願った台湾独立はまだ達成されていない。一党独裁政治から民主主義に移行
したことは、台湾独立運動の成果の一つではあるが、いまだに中華民国体制の枠に縛ら
れ、国際社会に国としての存在を認められていない。

 父は一生をかけて、台湾人に自分の母国と母語を愛するよう訴え続けた。「台湾語講
座」はその一里塚である。その声が届くよう、心より祈りたい。

 2012年4月

                 (王育徳次女・台湾独立建国聯盟日本本部委員長)