【王明理】「戦後日本と台湾の関係」3

戦後日本と台湾の関係(3)
                 王 明理 台湾独立建国聯盟日本本部 委員長 

【台湾独立運動】 

 蒋政権下の台湾人は、島内では全く言論の自由がなかったために、この窮状を打破する活動は海外で行うしかなかった。当然のように、地理的にも近く、言葉の問題もない日本で、台湾独立運動がはじまった。アジア各国の民族活動家は、日本に活動の拠点を置くことが多い。戦前のベトナム、インド、中国(孫文)、戦後の台湾、チベット、ウイグル、内モンゴル、などなど。アジアの中で日本は一番開明的で人権を尊重する法治国家だからである。また、日本人の気質の中に、弱い者を助けようという義侠心や懐の深さがあるからだろう。

 台湾独立運動の活動を最初に始めたのは、廖文毅(りょうぶんぎ)で、1950年、東京で、呉振南の「台湾住民投票促進会」と合流して「台湾民主独立党」を設立。1955年に「台湾共和国臨時政府」を樹立し、大統領に就任した。他に副大統領や大臣、議員などを決め、いわゆるシャドー・キャビネットを作った。自分たちに協力しない台湾人をどう処罰するかという条例まで決めた。パフォーマンスとしてはなかなか面白いインパクトがあり、ある程度、日本の有識者やメディアの関心を惹くことに成功した。のちに、丸谷才一が書いた『裏声で歌へ君が代』はこの活動に関わった人々をモデルにしている。しかし、機関誌『台湾民報』もA4サイズ4ページだけのもので、内容は自分たちの役職や議員の地位のことばかりで、台湾を国民党の桎梏から解放する手立ても具体的な運動方針もあるわけではなかった。

 それに飽き足らず、もっと実際的な活動をするべく立ち上がったのが「台湾青年社」であった。「台湾青年社」は父、王育徳が東京に来た留学生たちとはじめたものである。

 王育徳は、2・28事件のあと、政府から命を狙われていた為に、1949年に日本に亡命した。日本に来てからの10年間は政治活動には携わらず、母校東京大学に再入学して、台湾語を研究することに専念した。学問の自由がない台湾ではできない研究であった。台湾語と中国語の五大方言との関係性を研究することは、台湾民族の母語のアイデンティティを明らかにすることでもあった。また、台湾が独立した時に、すみやかに台湾語を公用語にできるようにと、台湾人が使いやすい表記文字の開発にも精力を傾けた。そして、博士課程を修了し、大学への就職も決まったあと、やっと満を持して台湾独立運動をスタートさせた。 

 1960年2月28日、王は日本に留学に来ていた台南一中時代の教え子たちと一年間の準備の後に「台湾青年社」を創立した。発足時はたった6名だけの出発であった。王は36歳、留学生たちは28歳前後であった。独立運動に足を踏み入れたら、二度と台湾に戻ることは叶わないし、故郷の家族に迷惑がかかることも覚悟しなければならなかった。東京にも、国民党の手先、特務が暗躍していて、学校などに入り込み、台湾人留学生の行動を監視していた。

 「台湾青年社」の目指す台湾独立とは、中華民国政権を倒して、台湾人の国家を作ることで、台湾人として当然の要求である言える。機関誌『台湾青年』は、台湾人留学生に台湾人意識の啓蒙を促すこと、台湾独立へのコンセンサスを作ること、日本の知識人やマスコミに台湾の事情を知らせることを目的に発行された。当初は隔月刊であったが、10号からは月刊となり、2002年に500号で停刊するまで、台湾問題のオピニオンリーダーで有り続けた。

 しかしながら、台湾の事情は特殊だったために、はじめは四面楚歌であった。蒋介石に恩義を感じる右翼からは、罵声を浴びせられ、中共を信奉する左翼からは、中華民族の統一に反対する反逆者として、糾弾された。頼りにすべき台僑たちは、国民党に睨まれることを怖れて、蔭でこっそり資金援助してくれる人あっても、ほとんど協力してくれなかった。「台湾共和国臨時政府」は「台湾青年社」を傘下に置こうとしたが、言うことをきかないと分かると攪乱しようとしてきた。(結局、1964年、廖文毅は台湾政府に投降した。)

 しかし、孤立無援のなかでも、ぶれずに台湾問題を訴え続ける『台湾青年』は次第に人の目に留まるようになり、雑誌にもとりあげられ、日本人の理解者や支援者も現れ始めた。そして、留学生の中から活動に参加する者が出てきたのが何と言っても一番の効果であった。現在、日本でもよく知られている、許世楷、羅福全、宗像隆幸、金美齢、張国興、黄文雄、連根藤らは旧くからのメンバーである。さらに、『台湾青年』の中文版や英文版も発行した結果、より多くの海外留学生に影響を与えることになった。1970年には、日本、アメリカ、欧州、カナダ、台湾(地下組織)の団体が統合して、「台湾独立聯盟」を発足した。(1987年、台湾独立建国聯盟に改称)。アメリカの盟員は1982年、FAPA(台湾人公共事務会)を作って、ロビー活動を行い、米国議会に働きかけるなどして、間接的に台湾の政治や民主化に多大な影響を与えた。

 先に述べたように、台湾が一党独裁体制を打破し、民主制度に無血で移行できたのは、李登輝総統のお蔭であるが、海外の独立運動がこれを後押したことも事実である。

 現在の台湾独立建国聯盟の目標は、台湾国が主権独立国家として国際社会に承認され、正式の外交関係を各国と結ぶことである。

 それには、まず、台湾が中国人占領政権の「中華民国」という看板を下ろして、中国とは別個のpolitical entity (国家)であることを顕示するのが第一歩である。

 ところが、この第一歩が最も、中共政府の許さない点である。中共は2005年に「反分裂国家法」(日本では「反国家分裂法」と呼ばれる)を施行し、台湾が独立を宣言した場合、武力攻撃すると明言している。それでいて、「一つの中国」を主張する中共は「中華民国」が国際社会に存在することを許さない。台湾はこのままでは永久に国際社会から締め出されたままである。

 この難しい方程式をどう解くか。その答えは、実はシンプルである。日米を中心とした国際世論が、台湾の主権独立国家としての存在を承認し、中共の武力攻撃を許さない姿勢を取れば、解決する。逆に言えば、台湾だけの力では、解決は難しいとも言える。

 しかし、中共に経済を人質にとられている日本もアメリカも、中共の顔色ばかり見ていて実に頼りない。日本のマスコミに至っては、台湾人を中国人と混同する始末だ。台湾人と中国人が違う民族であることを一番身近に知っていたのは日本人であるはずなのに台湾人と中国人をひとくくりにするデリカシーの無さ、知識の無さに愕然とする。台湾人は戦後、冷たい日本人の背中を見てきた。それでも、2011年の東日本大震災の折、台湾人は200億円を超す義援金を送り、真っ先に救助隊を派遣した。心から日本のことが好きなのだ。台湾に対する日本の戦後は終わっていない。

(続く)

著者:(おう めいり)東京生まれ。慶應義塾大学文学部英文学科卒。父王育徳の志を継ぎ、現在、台湾独立建国聯盟日本本部委員長。編集書『王育徳全集』『「昭和」を生きた台湾青年』、共訳書『本当に「中国は一つ」なのか」、他詩集など。

〔『伝統と革新』19号(2015年5月刊)「戦後はまだおわらないのか?」(たちばな出版)に掲載〕

2015.6.17 08:00