【独立運動に投身した台湾人エリート】王育徳伝(二)

【独立運動に投身した台湾人エリート】王育徳伝(二)

国民新聞より転載

王明理 台湾独立建国聯盟 日本本部 委員長 

(幼少期・青年期・大正十三年〜昭和二十年)

王育徳は大正十三年(一九二四年)、台湾の古都、台南に生まれた。当時の台湾は、日本の統治下に置かれてから三十年が経過し、行政、教育、医療、産業などあらゆる面において「日本社会」であった。植民地事業を行うのに、日本は優秀な技術と人材を送り込んだので、当時の台湾は他のアジア諸国とは比べようもないほど、近代文明の恩恵を受けていた。一般の民衆の生活習慣は、台湾式をベースにしながらも、日本の風習を習い覚えて取り入れている状態であった。

育徳の父、王汝禎は台南市で海産物問屋「金義興商行」を営む実業家であった。日本の商品の輸入も手掛け、一時期、台湾南部の物価は「金義興商行」が決めると噂されるほどであった。社会事業家としても何度も表彰を受け、昭和十五年の紀元二千六百年祝賀式典には、台湾人民間人の代表の一人として皇居に招かれた。

王汝禎は子供の教育に関して非常に熱心であった。学歴に保障された高い社会的地位を持つことが一族の繁栄であると考え、できるだけ良い学校に子供を通わせようとした。
さらに、それだけでは人間の素養として足りないと考え、家に漢文の教師を招いて、子供たちに漢文教育を課した。四書五経などの漢文を台湾語で読むのである。育徳は、「学校では日本語教育を受け、帰宅すると厳しい漢文教育を受けるという二重の教育を強いられて、かなりの苦痛であったが、のちになって自分の台湾語の素養を培ってくれたことに感謝した」と述懐している。

日本政府は台湾統治の五十年間に、初等学校一一九四校、中等学校一七四校、大学専門学校六校を新設し、昭和十九年(一九四四年)には就学率は七十一%にのぼった。当時の他の各国と比べても格段に高い教育水準であった。又、日本内地より高い俸給が一つの理由になって、台湾には多くの気概に燃えた教師が渡った。日本人は台湾人の教育に非常に熱心であった。山地では赴任した警察官が初等教育の教師も勤めた。戦後も、台湾人が恩師をなつかしみ、台湾に招いたり日本で同窓会を開いたりすることが頻繁に行われたことから見ても、その教育はおざなりではなく、心の通う指導であったことが伺える。


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