【楠流兵法】─孫子と闘戦経の実践─(1)

【楠流兵法 】─孫子と闘戦経の実践─(1) 

 『軍事情報別冊』より転載

家村和幸

▽ はじめに

 日本兵法研究会の家村です。
これからあなたに「孫子と闘戦経を表裏で学び、実戦場裏でそれを遺憾なく発揮した
兵法の天才・大楠公こと楠木正成」の偉業を偲(しの)び、それを後世に伝えるために
祖述された楠流兵法の代表的兵書である『河陽兵庫之記』を紹介してまいります。

ところで、私が楠木正成に興味を持ち始めたのは、陸上自衛隊幹部学校の指揮幕僚課程
(旧軍の陸軍大学校に相当)入校中の平成6〜7年のことでした。有名な千早城の戦い
や湊川の戦いについての書物を読みあさり、戦術の天才・大楠公に憧れながら、一所懸
命に戦術を学んでいた1等陸尉(大尉)の頃を懐かしく思い出します。

平成7年8月に幹部学校を卒業して最初の勤務地が兵庫県伊丹市にある中部方面総監
部、官舎は兵庫県宝塚市でした。装備部後方計画課という部署に配置になり、後方計画
幹部(兵站幕僚)として2年間にわたり勤務しましたが、赴任した平成7年1月には、
あの阪神大震災がありました。大震災から半年後の兵庫県ではまだ、いたるところに大
震災の傷跡が生々しく残っており、公園のほとんどが仮設住宅で埋まっていました。特
に市街地で活断層の上だけが帯状に空き地になっていたのが印象的でした。

ここでの私の勤務の大半は、兵站分野における災害派遣終了後の処理業務と方面隊災害
派遣計画の見直し・修正や未整備地区の新規作成で、仕事の山を抱えて夜遅くまで多忙
を極める毎日でした。しかし、そんな中でも阪神地区に居住するこの機にとばかり、
休日には神戸の湊川神社や京都周辺、さらに家族旅行を兼ねて河内の国・富田林から金
剛山にまで足を伸ばし、下赤坂城や千早城といった楠木正成の戦跡やゆかりの地のほと
んど全てを訪ねまわりました。

このとき、現地を訪ねて見聞したこと全てが、今日にいたる自分の兵法研究に大きく役
立っています。

 さて、それでは本題の楠流兵法『河陽兵庫之記』に入りましょう。今回は、第一章の
前半部分を現代語訳で紹介いたします。

▼遺 誡

 立派に天下を治め、国家を保つことができる者は、「文武」を別々のものと捉えては
いない。これらは名は異なるが、その大もとは軌を一にするのである。

例えば、水と波のようなものである。平静のときは文をもって、動乱のときは武をもっ
て治めるのである。動いている状態を波と言い、平らかな状態を水と言うようなもので
ある。水は幾度でも変化に順ってその流れを制御し、波も又気象に応じてその勢いは自
然のままである。従って、天下安泰といえども、兵(いくさ)を忘れる時にはいつでも
世は乱れ、国といえども、戦いを好む時はいつでも身を滅ぼすと言って過言ではない。

いかなる場合でも、楯や鉾(ほこ)のような武器は凶器となりうるものだが、その武器
によって、相手の武器の使用を止めさせ、或いは思いとどまらせるということこそが
「武」の真に意味するところである。

君子(理想的な人格者)は、私的な闘争は行わないものでありながら、その一方で正義
を争い、善悪を闘わせることは、哲主(物事の道理に明るいリーダー)や名士(経験が
豊かで識見が高い人物)の為せるわざなのである。

人を斬り殺すことは世間では忌み憚られるにもかかわらず、道に背いた者はこれを斬
り、道を行きてその心に徳のある者はこれを賞し、一人を殺して千万人を助(扶)け
る、これこそが「兵」の大いなる徳行についての正しい見識の持主なのである。このよ
うな場合における武器は、凶器ではない。従って、兵は殺すことによって博愛をなすの
である。そう考えれば、何ゆえに「兵」とは縁起が悪く、誰からも望まれないものだ、
等と言えようか。

そうであればこそ、古き昔の法においても「人を制するに道を以てし、心を降し志を服
せしむ。矩(かねじゃく)を設けて衰ふるに備ふ。甲兵の備有りと雖(いえ)ども、戦
闘の患無し」と言っている。

本当に道の道たる事を知れば、質素にして控えめに己を勤め、人々が平和な日々をもた
らす武の恩に報いようとの心があれば、止戈の意味するものは自ら顕著となり、そうし
て国家はいよいよ安全なものとなる。

しかしながら、近年は、上級者に仁徳の行いが絶えて、己の全力を傾けてことにあたる
リーダーも無く、下級者も忠義の気持ちが衰えて、上下逆乱の世に苦しむことが続いて
いる。このような時代に至って人は皆、 野良犬や狼のような残酷な心となり、朝には
味方であったものも、暮れには敵となり、恩を棄てて利益をとる。これをさずけて言え
ば、「庸妄人(特別すぐれた所も無く、でたらめな人間)は畜類に異ならず」という。

世は世たらずといえども、吾れ人たらんことを嗜むべきである。みだりに他人に盲従し
てはならない。ただ時々刻々に心を鍛錬して家業に励むようにして、決して武士として
の名を潰してはならない。このように心得て、悪を戒め、善を勧め、功績のあったもの
を賞揚し、悪事をはたらく徒を罰して治め、国家の守りをなすものを武士というのであ
る。

武士たる道を真実に心懸け、何事も怠らない兵は、神明も威を加え、死に到るとも不義
の名により辱(はずかし)めを受けることはない。屍を竜門原上の土に埋むと雖も、
名は留まりて後代の誉れを得ることこそ、最もこいねがうべきものである。

もしも私(楠木正成)の子孫が不義の人となって、私の遺誡を守らなければ、この正成
は速やかに悪鬼と化して、国中どこにいても見つけ出して殺戮してしまうだろう。そう
ならないように前述のことをしっかり覚えておくこと。

▼兵 道

 何事にも陰陽の義を以て比較し当てはめて、その道理を考察しなければならない。天
地の両義が立って生成があり、殺壊(さつえ)があり、常住(滅びも 変わりもせず、
永久に存在すること)があり、変易があり、動静治乱があり、進退・勇怯・盛衰・虚
実・軽重・表裏がある。そうであれば、文事をなす者は、却って武備があり、武備があ
るときは、同時に文事がある。従って文を左として武を右とするのが古の法である。比
翼のようでもあり、また両輪のようでもある。

たとえ備え(武)があっても、それにあたる人(兵)がいない時は(文武)共に行われ
ることはない。そうであれば、この兵の道にある者は、常に弓馬の技を練り、威武(武
力に優れ、勇ましいこと)をもって世の中を統治するとはいっても、元より、その道の
道たる所を悟って、あらゆることに於いて私を捨て、一向に常住の思いを抱いてはなら
ないのである。

天地は不動にして、太陽や月の動きには一定のきまりがあるとはいえ、その常なる中に
おいて、常なるものは無いということを思うときは、すなわち「常変・変常の理」にそ
れぞれ合致させて、これを不易の心法とせよ。不断にこの心をもって治乱公私の義を
量り見ると、その本質は当たらずと雖も遠からずである。

つまり、「武」というものは、もっぱら世の中を統治するための備えであると言うこと
を、よくよく心に悟るときは、すなわち兵ではなくても(いくさが無い状態であって
も)武であることを知らなければならない。これを道の道たると言い、己に私無しとい
う。

兵道には従来異なるものが多々あるようだが、実際にはただ一つのものが二つの義に分
かれ、さらに分かれてそれらが混合し、やむを得ずしてその中の一方を為しているので
ある。そうした一見多々あるような兵道の軽重表裏に到っては、正成自らがこれを通変
の人(変化に柔軟に応じられる人)に伝えるものである。

▼武 義

 天地は上下にあって、太陽と月は未だ地に降りて来ず、土や石は永遠に天に上がらな
い。

君主がたとえ立派な君主ではなくても、長期にわたり軽蔑し続けてはならない。しかし
ながら、君主たる人が、家臣を土芥のごとく見て、これを土芥のごとく扱えば、家臣も
又この君主を「仇を討つべき敵」の如くに見て、謀反をなすことがある。これを逆臣と
いう。

君主の政を正さず、逆臣がことを謀れば、国家が亡んでいく端緒となる。国がこのまま
では亡んでいくのを見て、君主に諫(いさ)めをなし、その結果、あるいは遁(のが)
れ、あるいは諫めて死ぬ。このように竜逢・比干たちや、伍子胥のような者は皆、家臣
としての規範である。日本においても藤房卿がその人である。

弓馬に携わり、武芸を業とする勇士としては、天下が治まっている時は、ともに栄える
のを第一義とし、亡ぶに及んではともに亡ぶ。悲しむこともなく、喜ぶこともなく、時
に当たって義を行う。これを真の智勇とせよ。

(以下次号)


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