【李登輝元総統】「日台の絆は永遠に─台湾人の英霊に祈る」(中)

【李登輝元総統】「日台の絆は永遠に─台湾人の英霊に祈る」(中)

日本李登輝友の会メールマガジン「日台共栄」より転載

 

 李登輝元総統が5月10日発売の月刊「Voice」6月号に「日台の絆は永遠に─台湾人の英霊に祈
る」と題して特別寄稿されていることを、発売日当日、本誌でお伝えしました。

 この40枚弱(400字詰め原稿用紙)に及ぶ特別寄稿について、ご自身のご家族と日本との歴史的
な関わりを紹介し、日本が中国の対応を恐れることなく、「日本版・台湾関係法」を制定し、台湾
交流に法的根拠が必要だと切望する、と「Voice」6月号のホームページで紹介しています。

 驚いたのは、台北高等学校を卒業間際の昭和18年6月28日付「台湾日日新報」インタビュー記事
「決戦下学徒の決意」や、実兄で昭和20年2月にマニラで戦死し、靖國神社に祀られる岩里武則命
(台湾名:李登欽)への昭和18年9月22日付「台湾日日新報」インタビュー記事「帝國海兵として
お役に立つ」も紹介していることです。

 この2つのインタビュー記事は、かつて本会の台北事務所ブログで紹介したことがあります。し
かし、李元総統が自らの論考の中でこのインタビュー記事を紹介されたのは初めてのことです。

 また特筆すべきは「安倍総理へ3つのお願い」の3番目に、本会が昨年3月から提唱している日台
関係基本法、すなわち「日本版・台湾関係法」の制定について「この誌面を通じて深くお願いする
ことにしたい」と記されていることです。

 ともかく読み応えのある論考です。すでに読まれている方も少なくないと思いますが、5月27
日、月刊「Voice」編集部はその全文をホームページに掲載しました。

 そこで、本誌では論考の内容がある程度わかるように分載ごとの小見出しを紹介し、上・中・下
の3回に分けて全文をご紹介します。掲載写真は月刊「Voice」6月号のホームページからご覧くだ
さい。

◆論考小見出し

 (上) はじめに 映画『KANO』のこと 「なぜ台湾をお捨てになったのですか」 「いかに生き
    るべきか」という悩み
 (中) 新渡戸稲造との出会い 「決戦下の学徒として」 「帝國海兵としてお役に立つ」 東京
    大空襲で奮闘
 (下) 大好きな兄との再会 安倍総理へ3つのお願い 台湾のために十字架を背負って

◆月刊「Voice」6月号
  http://www.php.co.jp/magazine/voice/?unique_issue_id=12438

◆李 登輝(り・とうき)台湾元総統
 1923年、台湾・台北州淡水生まれ。台北市長、台湾省政府主席、台湾副総統などを経て、1988
 年、総統に就任。1990年の総統選挙、1996年の台湾初の総統直接選挙で選出され、総統を12年務
 める。著書に、『新版 最高指導者の条件』(PHP研究所)ほか多数。

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日台の絆は永遠に─台湾人の英霊に祈る(中)

                                  元台湾総統 李 登輝

◆新渡戸稲造との出会い

 台北高校の一クラスの定員は40人。そのうち台湾人の生徒は3人か4人だったと記憶している。在
学中、とくに差別を感じたことはない。むしろ先生からはかわいがられたほうだと思うし、級友た
ちも表立って私におかしなことをいう者はいなかった。自由な校風の下、私は級友たちとの議論を
楽しみ、大いに読書に励んだ。

 本を読むには時間がかかる。そこで私はノートにどんな分野の本を読んだか、いつまでに読むか
を逐一メモしていた。哲学、歴史、倫理学、生物学、科学。ほんとうに、ありとあらゆる分野の本
を読んだ。高校を卒業するまでに、岩波文庫だけで700〜800冊はもっていた。私の人生観に影響を
与えた本は多いが、1冊を選ぶとするならば、19世紀の英国の思想家、トーマス・カーライルの
『衣裳(衣服)哲学』を挙げる。しかし、カーライルの英文は格調が高すぎて、読み進めるのがな
かなか難しかった。そんなとき、台北の図書館で新渡戸稲造の『衣裳哲学』についての講義録に出
合った。これに大いに助けられ、またその内容に感銘を受けた私は、『武士道』を座右の書とする
ようになる。京都帝国大学で私が農業経済学を学んだのも、農業経済学者であった新渡戸の影響を
受けたことが理由の一つである。

 新渡戸は『武士道』のなかで、「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」を武士の徳目
として挙げている。しかし『武士道』でなにより重要な点は、それらの実践躬行を強調しているこ
とであろう。一回しかない人生をいかに意義あるものとして肯定するか。そのために「私」のため
ではなく、「公」のために働くことの大切さや尊さについて『衣裳哲学』や『武士道』から学び、
若き日の私は救われたのである。

◆「決戦下の学徒として」

 学問好きが高じて私は最終的には歴史の先生になるつもりでいたが、戦争の余波は台湾にも及ん
でおり、私は台北高校を半年間繰り上げて卒業することになった。卒業まであと少しというとき、
私は『台湾日日新報』の取材を受けることになった。同紙は日本統治時代の台湾で最大の発行部数
を誇っていた新聞で、1943年(昭和18年)6月28日発行の同紙に私のインタビュー記事が掲載され
た(現在、台湾の大学の図書館などで、記事が検索、閲覧可能である)。

<“決戦下学徒の決意”といふ問に答へ、臺北高校3年文科の本島人学生岩里君は左の如く語つた。

 決戦下の学徒として僕達の切實の感情は何と言つても大東亞戦に勝ち抜くと云ふことだ。学問を
するといふことが要するに國家目的の為であつて、これまでのやうな学問の為の学問といふ考へ方
は絶対にあり得ないと思ふ。

 学園内のこれまでの弊衣破帽の風も現在としては一時代の遺物とも言ふべきもので、吾々には新
しい立場が必要だと言ふことは痛感してゐる。唯高校生は内省的な傾向が強いので外部に余りはつ
きり自己の立場を示すことがないが、外部に於てはさうした氣持は相当強いと思ふ。

 今や臺湾にも陸海軍の特別志願兵制度が施行され、私も大学の法科を出たら志願をしたいと父母
にも語つてゐるのであるが、軍隊の制度は吾々が自己の人間を造る所であり、色々と苦しみを忍ん
で自己を練磨し明鏡止水の窮地に至るに是非必要な所だと信じてゐる。近くに内地に行くこととな
つてゐるが内地に行つたら日本文化と結びつきの深い禅の研究をしたいと思ふ。

 過渡期の知識層といはれる面に一番欠けてゐるものは力であり、指導力であつて現在でも國民を
ひきづつてゐるのは哲学でも理念でもなく、國民の氣力であり学問はその國民の氣力に立遅れた感
があるが國民の力の原動力となる学問が必要だ。

 現在の哲学が軍人に讀まれてゐぬといふ所に現代の学問の危機があるのではないだらうか。本島
では大東亞戦の認識がまだ最末端まで徹底してゐない所がある。さう言ふ人達に對する啓蒙は私と
しては本島人に對する義務教育が一番有効に働くものではないかと思ひ義務教育の施行された事は
尊い有難いことだと思つてゐる。結局教育と徴兵制が本島人が日本人として生まれ変わつて行く大
きな要件ではないかと思ふ。>

 1行目に岩里君とあるが、これは私の日本名である。当時は岩里政男と名乗っていた。また、
「決戦下の学徒として僕達の切實の感情は何と言つても大東亞戦(大東亜戦争)に勝ち抜くと云ふ
ことだ」とあるが、実際に私は京都帝国大学に入学後、学業をわずか1年2カ月ほどで切り上げ、陸
軍に入隊した。召集ではなく、自分の意志で志願したうえでのことである。

 私がクリスチャンになったのは戦後のことであり、当時は日本の教育の影響で徹底した唯心論者
であったが、「死」がどういうものか、わかっていたつもりである。「武士道とは死ぬことと見つ
けたり」。『葉隠』の精神そのままに、国のために戦って死んでも惜しくはないと考えていた。日
本統治時代の教育を受け、志願兵となった当時の台湾人青年にとって、それはごく普通の感覚で
あった。

 大阪師団配属後、私はすぐに台湾・高雄の高射砲部隊に派遣された。一歩兵として最前線をさま
よい、少年期から私を悩ませてきた生と死の問題に決着をつけるつもりだったが、学徒兵であった
私の希望は受け入れられなかった。高射砲部隊というのは爆撃がなければ暇なもので、日本では禁
書だったレマルクの『西部戦線異状なし』などを読んでいた。

◆「帝國海兵としてお役に立つ」

 先の記事にも触れられているが、1943年に台湾で海軍の特別志願兵制度が発表された際、入隊希
望者が殺到した。私の兄は晴れて第1回目の志願兵となる。次に紹介するのは、『台湾日日新聞』
(昭和18年9月22日付)に掲載された兄(日本名:岩里武則)のインタビュー記事である。

<岩里武則君(22)臺北市下奎府町4丁目=武則君は大正10年臺北州三芝庄新少基隆に出生、淡水で
高等小学校卒業後家業を手伝つてゐたが昭和17年8月台北州巡査を拝命、北署管内太平町3丁目の派
出所に勤務する明朗溌剌な青年巡査であるが、海兵第一番乗りの喜びを下奎府町の自宅に訪へば武
則君は妻女奈津惠さん(22)、愛兒美智子ちやん(4つ)、憲昌ちやん(2つ)の前で感激の面持で
次の如く語つた。

 私が海軍特別志願兵を受験した時から必ず合格すると信じてをりました。しかしそれが本當に實
現してこんなに嬉しいことはありません。勿論銃後にあつて治安保護の戦士としてお國に盡すこと
もご奉公ですが、出來る事なら第一線でお國のために華華しく活躍したいと思つてをりましたがそ
れが本當になりました。しかも無敵帝國海軍の一員として名譽ある軍艦旗の下で米英撃滅に働くこ
とが出來るのです。自分としてこんな感激に浸つた日は今日までありません。これからは立派な帝
國海兵としてお役に立つ日の一日も早く來ることを願ふばかりです。>

 1944年、高雄から程近い左営の海軍基地に初年兵として配属された兄は、日曜の休みに私を訪ね
てきてくれた。そして2人で一緒に記念写真を撮ったのが、生前に会った最後となった。

 そのとき、兄が私に言い残した言葉は「南方のある港に駐在になる。おまえも近く日本に行くだ
ろう。会うのは今日が最後だな」ということだけだった。南方というのはフィリピン・マニラのこ
とである。しかし軍機に触れるという理由で、兄は私に具体的な行き先を告げなかった。

 当時、兄は最優秀の巡査として、台湾でいちばん大きな派出所に勤めていた。そんな立場をなげ
うっての出征である。しかも、若い妻と幼い子供を残して行くのである。いったい、どんな気持ち
だったのか。兄の戦死から70年経ったいまでも、私の心の整理はついていない。だが、「立派な帝
國海兵としてお役に立つ」と語った兄の気持ちに偽りはなかったと思う。兄も私もほんとうに若
かった。国のために立派に戦って死ぬという理想に燃えていた。いま言えるのは、それだけである。

写真:李登輝元総統(右)と兄・李登欽氏。1943年撮影(写真提供:日本李登輝友の会)

◆東京大空襲で奮闘

 高雄で兄と別れたあと、私は輸送船に乗って台湾・基隆を出発した。潜水艦の雷撃を避けるた
め、輸送船は中国大陸、そして朝鮮半島沖の浅瀬を進みながら、日本をめざした。門司港(福岡
県)に着いたのは、基隆を発ってからじつに21日後のことだった。

 1945年2月、私は千葉県稲毛にあった陸軍高射学校に入り、いわゆる予備士官教育を受けた。早
速、3月10日には大きな戦いが待っていた。東京大空襲である。帝都に侵入するB-29の大編隊に対
して、われわれの部隊は高射砲を撃ちまくった。台湾の防空戦で実戦慣れしていた台湾出身者は、
日本人幹部候補生が慌てるなか、大いに奮闘した。焼夷弾の破片が私の鼻をかすめたが、軽傷で済
んだのは幸いであった。この戦闘では高射学校直属の小隊長が戦死。私はたちまち飛び出して、代
わりに指揮を執った。

 翌日、軍命で東京東部に出動し、被爆地の整理、被災者の救済に当たった。現場をみて指揮する
大切さを知り、このときの経験が1999年の台湾大地震で役に立った。

 その後、私は名古屋の部隊に配属になったが、この地域も米軍による空襲が激しかった。米軍が
最後に名古屋を爆撃に来た日の戦闘では、付近の工場を片っ端から爆撃していったが、いま思い出
してもほんとうに悲惨な光景だった。すでに米軍の爆撃で名古屋城一帯は焦土と化しており、われ
われはお城の裏にテントを張って野営をしていた。

 8月15日の玉音放送はたしかに聞いたが、音が小さすぎて内容がよくわからなかった。あとで日
本が降伏、戦争が終わったと聞き、正直、ほっとしたのを覚えている。これから日本がどうなるの
か、そのときはまったく見当もつかなかった。2、3日後、京都に帰りたいと申し出てみたら、あっ
さり許可が下りた。京都帝国大学に戻ってみたら、数日後に通知が出て、退職金を取りに来いとい
う。日本で1年は暮らせるぐらいの額の金はあったと思う。しかし、すでに故郷の祖父からは「早
く帰れ」と矢のような催促が来ていた。私も故郷のことが心配でたまらなかった。

 京都周辺では台湾人による帰国準備があまり進んでいなかったが、同じころ東京では、台湾の友
人たちが集まって浦賀から帰国する計画を進めていた。そこで私は東京に向かい、新橋駅近くに
あった台湾出身の陳さんの家に住ませてもらい、出発の船を待つことにした。辺り一面焼け野原の
なか、陳さんの家だけがポツンと建っている状態だった。

 1946年4月、故郷の三芝庄に無事帰ることができた私は、祖父母や両親と再会したが、兄の行方
についてはまったくわからずにいた。しかも、使用人として雇っていた親戚の女の子が不思議なこ
とをいう。軍刀を持った血まみれの兄が蚊帳の外に立ち、兄嫁が大事に育てた子供たちを見ていた
というのだ。その使用人の女の子は実家に帰ってしまったが、程なくして亡くなったと聞いた。

 私は、兄が家に来たのは戦死した日ではないかと思った。どうしても兄にもう一度会いたかった
私は、毎晩、寝ずに兄の霊が現れるのを待っていた。72kgあった体重はみるみるうちに60kgまで痩
せてしまった。しかし、いくら待っても兄の霊は現れない。心労からか、半年も経たないうちに母
は癌で亡くなり、祖父までもが肝臓を悪くして死んでしまった。父は95歳の天寿を全うしたが、遺
骨が還らないことから、兄が死んだことを最期まで信じなかった。父が兄の墓を建てなかったた
め、私の家族は兄の霊を弔うこともできなかった。

                                       (つづく)