【台湾と私】李登輝先生の門下生

【台湾と私】李登輝先生の門下生 

日本李登輝友の会友の会メルマガ「日台共栄」より転載

    辻井 正房(本会常務理事・千里丘タクシー代表取締役)

【機関誌「日台共栄」10月号:2016年10月1日「台湾と私」(40)】

 1979年6月、当時は台北唯一の空港だった松山機場に降り立ったのが台湾への最初の一歩でし
た。所属していた地元の青年会議所が創立5周年を記念して、台中県大甲市(現台中市)の國際青
年商会と姉妹倶楽部関係を結ぶことになり、締結式に出席するためでした。数えると37年も前にな
ります。その後、度々台湾を訪問するようになりました。新幹線(高鐵)もない時代でしたから、
台北と大甲をバスで往復するだけの慌ただしい訪台でした。

 当時の台湾を振り返ってみると、1975年に蒋介石が死亡。78年には蒋経国が総統に就任し、初訪
台の79年といえば米中国交が樹立され、アメリカが台湾と国交を断絶した年で、12月には後の台湾
情勢に大きな影響を及ぼすことになる美麗島事件が勃発しています。台湾にとっては大きな節目の
年だったといえます。

 台湾に対する当時の認識は、「太平洋戦争で負けるまで日本領土」で、その後、「?介石の国民
政府に返還」され、「49年の国共戦争で共産党軍に追われた国民政府が首都を台北に移して統治し
ている」といった、今から思えば顔から火が出るような認識でした。47年に起こった二二八事件
や、その後に戒厳令が実施され、スパイ容疑で日本時代の教育を受けた台湾のインテリ層が次々と
逮捕され、拷問にかけられて無実の罪で殺されたり投獄された「白色テロ」などについては知る由
もありませんでした。

 「本省人」「外省人」という言葉は耳にしたことはありましたが、それは元々台湾に住んでいた
人と、戦後、国民政府と共に本土から来た人との区別だと説明されていました。大甲JCとは何度
も交流していましたが、政治のことを話題にした記憶はありません。今から思うと、向こうの人達
は意識的に政治的話題を避けていたのかもしれません。

 司馬遼太郎の『街道を行く─台湾紀行』を読んで、ますます台湾に惹かれていきました。李登輝
閣下や「老台北」蔡焜燦先生のこともこの本で詳しく知りました。

 私の台湾人生を大きく変えた契機は、2011年9月でした。その年の3月11日に東北地方を襲った東
日本大震災に対し、台湾から200億円を超える義援金が送られました。所属する自衛隊関係団体で
は、感謝のために台湾を訪問して、馬英九総統へお礼の表敬訪問をし、圓山大飯店で李登輝元総統
へお礼を申し上げると同時に記念講演をお聞きする機会を得ました。

 すでに日本李登輝友の会に入会していましたが、初めて直接先生のお話を聞き、88歳とは思えぬ
迫力のある話しぶりと、日本や日本人に対する叱咤激励のお言葉に、涙が溢れて止まりませんでし
た。

 それからの李登輝学校研修団には毎回参加しており、すでに10回を数えます。

 2014年6月、清河雅孝先生から大阪府支部長を引き継いだ直後に、李登輝先生が9月に大阪で初め
て講演されることが決まりました。奇しくも私が李登輝先生来阪歓迎委員会の委員長を務めること
になり、8月12日の東京での記者会見から9月19日の国際会議場での講演会までの1ヶ月間は、まさ
に寝る間も惜しんで京阪神を駆け回りました。お蔭で、当日は1700名に達する多くの皆様に先生の
素晴らしい講演を聴いていただくことができました。

 これは、蔡明耀・駐大阪弁事処長を始め華僑団体や大阪府・市の議員連盟、台湾との友好団体、
自衛隊関連団体、各地のLCとRC等々、そして当日の会場運営を担っていただいた台湾好きのボ
ランティアのみなさんのお蔭でした。

 私の残された人生は、自称「李登輝先生門下生」として、微力ながら、日台関係の深い絆を次世
代に繋いでいくための活動でお返ししていくことだと考えております。