【台湾から見た日本】博学にして無知な日本人

【台湾から見た日本】博学にして無知な日本人

(転載自由)

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以下は6年前に上梓した単行本「日本よ、こんな中国とつきあえるか」の一部ですが、参考のために再度掲載させていただきます。

 「台湾の声」編集長 林 建良(りん けんりょう)

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(転送転載自由)

博学にして無知な日本人

●被害者に命の尊さを説教する?

 日本に来て一番感心したのは、日本人の知識の高さであり豊かさである。日本の一般庶民が、台湾の庶民に比べて豊富な知識を持っていることに驚かされた。ごく普通のおじさんやおばさんでもかなりの教養を持っていて、文化、芸術、文学など、いろいろなことについて知っている人が少なくない。

 私は栃木県の片田舎で生活しているので、まわりには農家の人が多い。そこには俳句や短歌を作っているおじいちゃんやおばあちゃんたちがいて、彼らはよくその作品を私に見せてくれる。なかには、絵を描いているお年寄りもいて、その絵をもらったりもする。話をしてみると、国の経済状況にしろ社会状況にしろ、それなりの知識を持っていて、私の知らない話をよく聞かせてくれる。

 日本に来る前から、日本人は本を読むのが大好きだと聞いていた。実際、日本に来て本屋をのぞいてみると、思っていた以上に出版されている数が多いのに驚かされた。あらゆる分野を網羅し、手に入らないものはないのではないかと思い、日本人は出版物には恵まれていると感心した。

 おそらく日本人は、世界のどの民族と比べても知識の点では最高水準にあるのではないかと思われる。しかし、なぜか非常に幼稚とも見えるところがある。無知に近い、あるいは無知と言っていいような現象を見聞きすることが多い。

 私がよく予防注射に行く栃木県今市市(現日光市)内の小学校で、一年生の女の子が殺害されるという事件が起こった。何とも酷い事件である。

 このような事件が起こると、学校では決まって全校集会を開き、子供たちに命の尊さを説教する。しかし、これは異様な光景だ。被害者になっていたかもしれない子供たちに、命の尊さを説教するということにどういう意味があるのだろう。子供たちに命の尊さを説教するのは滑稽としか言いようがない。命の尊さを説教するなら、犯人にすべきなのである。子供たちに教えるのは、いかに自分の身の安全を守るか、それだけだ。

●人間の善の面ばかりを強調しすぎる日本の教育

 日本の戦後教育を見ていると、人間の善の面ばかりを強調して、悪の部分には触れたがらない傾向が強い。まるで童話の世界を見ているようだ。しかも、それは幼い者に対するほど顕著で、制約を極力なくして、本能的な部分を尊重しているようだ。かつて小児科も担当していた私から見れば、これは子供の動物的部分を放置するようなもので、教育の放棄でしかない。

 たとえば、個性の尊重を強調する。しかし、人間はそもそも自己中心的なので、教えずとも本能として個性を発揮する。学校教育というのは、自分の個性だけではなく他人の個性を尊重し、社会のルールを守ることを教える場だ。それを、個性や自由といった本能に類することを教えるというのだから、これが学校教育と言えるのかどうかはなはだ疑問だ。

 また、幻の平和と反戦を吹聴する一方で、正義感と冒険心を意図的に子供たちから取り除こうとしている。そして、決まって命の尊さを説教する。子供の悪に相当する動物的部分を放置しながら、正義感と冒険心を抹消しようとするこのような日本の学校教育は、偽善的で偏っているとしか言いようがない。

 そもそも、子供が善の存在だというのは幻想にすぎない。子供にも悪の部分はある。だからこそ躾が必要なのであり、さらにこの世には善もあれば悪もあるという現実を子供に教えるべきなのである。悪の存在を教えないような教育であれば、当然ながら悪に向かっていく正義感も育たない。また、我が身を守る心構えも育たないのである。

 このような教育はつまるところ、子供に迎合して教育しているのである。知恵のある者が知恵のない者に合わせて教育しているということである。こういう教育の現状を見てしまうと、これは無知に基づいてやっているとしか思えないのである。

 私は地域診療のかたわら、地元の小学校と中学校の学校医も務めている。日本の教育は子供に媚びる傾向が異様に強いように感じている。

 子供を無垢で善な存在と考え、それに基づいておこなわれる個性尊重の教育は、結局、教育現場の崩壊をもたらしているが、これは教育責任の放棄以外のなにものでもない。なぜなら、それは人間は本来、善と悪を兼ね備えている存在であることを無視しておこなっている教育だからである。結果として、人間の悪の部分を矯正することを放棄し、善を伸ばすこともできないのだ。

 子供を善の存在とする教育思想は、子供の悪の部分を放置して助長してしまう。実際、私の診療室に、親に対して命令形で話をしたり、バカと怒鳴りつけたりする子供を多く見かける。このような子供たちがどのような大人になるのかは、成人式での新成人の悪ふざけを見れば想像がつく。

 なぜ賢いはずの日本の大人はわからないのか、台湾人の私は理解に苦しむ。いや、わからないはずがない。戦前の日本人は子供に媚びるような真似はしなかったという。しかし、現代の親や教師にとっては、個性の尊重を楯に、子供に媚びる方が楽だからだろう。

●知識やデータは蓄積できても、発言は許されない?

 ところで、国家レベルから見れば、日本はありとあらゆる世界情勢に関するデータを持っている。日本の繁栄はこれらのデータによるところが少なくない。

 先にも触れたように、二〇〇五年一二月八日、民主党の前原誠司代表(当時)がアメリカで中国の軍備増強について脅威だと発言したことがあった。当たり前のことを指摘したにもかかわらず、民主党内からは鳩山由紀夫幹事長をはじめ前原発言を非難する声が相次いだ。

 一二月二二日、今度は麻生太郎外務大臣が閣議後の記者会見で、中国の軍備増強について「軍事費が一七年間、一〇パーセント以上伸びている。その内容はきわめて不透明だ。かなり脅威になりつつある。前原氏の『脅威、不安をあおっている』という言い分は確かだ」と発言したところ、山崎拓元自民党幹事長が「脅威と言ってしまうと、対処しなければならなくなる」と批判した。

 もちろん中国は、前原発言にも麻生発言にも、根拠のない中国脅威論であり、「中国の発展が、日本を含むアジア各国に大きな発展のチャンスをもたらすなど、地域や世界の平和に貢献してきた」と、中国の軍備増強は日本の発展にも貢献したと嘯いて反発した。

 この前原代表や麻生外相のケースに現れているように、日本では、いろいろなデータをそろえ、いろいろな知識を蓄積することは許されているが、その知識やデータに基づいて発言することや行動を起こすことは許されていないようだ。つまり日本では、研究するのはいいが、行動を起こしてはいけないことになっているようなのである。

 世界では殺人、戦争、権謀術数、裏切り、闘争、資源の争奪などさまざまなことが起こっている。しかし日本では、このようなことは映画やドラマの世界の出来事と片づけ、まるで存在しないかのように考えて「臭いものにフタ」をしているように思われる。日本人を見ていると、そのようなことが世界で起こっているとは考えたくもないというふうだ。

 これは、ある外交官から聞いた話である。

 外国人新聞記者が外務省の高官に「もし万が一、台湾と中国が戦争になったら、日本の外務省はどのような対策をとるのか?」と質問した。これはきわめて現実性の高い想定で、当然、対策はあるものと思って聞いたのだそうだ。すると高官は「われわれはそのような事態を発生させないように努めている」とだけ答えたという。

 それだけだったので、その記者はもう一度「もし発生したらどうするのか?」と聞き直した。すると高官は「われわれはそのようなことは考えたくない」と答えたというのである。

 確かに、外交官としては事態が発生する前にその芽を摘み取っておくのが役目と考えての発言だったのかもしれない。もちろん、それが外交官としての役割なのだから理解できなくもない。しかし、「考えたくない」とはどういうことだろう。発言の影響力を考えて「仮定の話には答えられない」と言うのならまだわかる。しかし、外交の最先端にいる外交官が考えなくて誰が考えるというのだ。

 実はここに今の日本が透けて見えるのである。日本人には、世界で現実に起こっている戦争も殺人も暴動も略奪も「考えたくない」対象であって、映画やドラマという虚構の世界に押し込めてしまいたいのであろう。

●戦争の想定すらできない日本人

 では、日本人は軍事学や世界情勢について無知であるかというと、決してそうではない。私が知っている自衛官にしても軍事マニアにしても、恐ろしいほどの軍事知識を持ち、世界情勢の分析も的確で、私はいつも感心しながら拝聴している。しかし、この知識を行動としてどのように活用するかについてはほとんど考えていないようだ。

 たとえば、中国と日本の兵器などの戦力をよく知っている日本人に、「万が一、中国と日本が戦うときはどうするのか?」と問うと、途端に口が重くなって、まるで貝のように口をつぐんでしまうのだ。

 このように、知識に基づいて事態を分析・予測して行動に移すということが日本ではタブーとなっている。そこで思考を停止してしまうのである。それゆえ、起こっていても、見て見ぬふりをし、起こりうると予測される事態であっても、非現実として考えないようにしているのが今の日本だと言ってもあながち間違いではあるまい。

 それが冒頭に述べたような教育にも現れ、殺人事件があるたびに、学校は身を守るための行動については教えず、命の尊さを説教するだけに終始してしまうのである。また、自国の将来に関わる防衛をどうするかという問題では、戦争の想定すらできない日本人が増えつつあるのである。

 おそらく大方の日本人は、日本が核兵器の脅威にさらされたとしても、かたくなに「非核三原則」を守るつもりなのかもしれない。しかし、前原誠司氏も指摘したように、すでに中国の核ミサイルは日本に向けて配備されているのである。これも「非現実」の事態だというのだろうか。

●いつまでも学生気分に浸っている日本人

 日本に長くいればいるほど、日本人全員がずっと学生でいるのではないかという感じが強くなってきている。日本人全員が毎日、一所懸命に勉強しながら学校生活を送っているような思いにとらわれるのである。学校のキャンパスにいれば、学内で多少のいざこざがあっても、学外で起こっている陰謀や殺人や戦争からは保護され、仲間や先生に認められればそれでよしとして満足しているのである。

 その点で、今の日本人は殺害された小学校一年生の女の子のようにも思えてくる。学校では一所懸命に勉強しているが、自分をどう守るのかを学校では教えてくれないし、自分もその術を身につけていない。学校のなかなら先生や仲間に守られているが、一歩、学校から出れば守ってくれる人はいない。

 今の日本はアメリカに守られているが、アメリカが手を引いてしまえば、学校から一歩出た女の子と同じような立場に立つ。しかし、日本はどのようにしたら自立できるのかといった議論は、すぐに封じられてしまう。実行はおろか議論さえもまともにできない国なのだ。

 日本をどう守るか、日本の置かれている状態はどうなのかなどについて、日本人はよく知っている。しかし、有事の際はどうするのか、どのように対処するのか、そのようなことについては立ち上がろうとしない。日本が集団的自衛権を実行できないでいるのも、これが原因していると言ってよい。

 日本人は知識を持っている。しかし、学校で学んだ知識のように実際には役に立たない知識かもしれないし、そうでなかったとしても、使おうとしない知識であれば、いくら博学でも無知に等しいのである。

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参考

中国ガン・台湾人医師の処方箋」林 建良著 並木書房 2012年12月出版

http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%82%AC%E3%83%B3-%E6%9E%97-%E5%BB%BA%E8%89%AF/dp/4890633006/ref=sr_1_2?ie=UTF8&qid=1356076869&sr=8-2


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