【傳田晴久の臺灣通信】「農業を楽しむ」

【傳田晴久の臺灣通信】「農業を楽しむ」

                      傳田晴久
1.はじめに

No.88をお送りして以降、2ヶ月が経ってしまいました。私は健在、忙しくしておりました。ひょんな経緯から中文の冊子の翻訳をお引き受けし、実は悪戦苦闘、ようやく目鼻が付きましたので、No.89に取り掛かりました。今回は、「悪戦苦闘」から得たことどもを書いてみたいと思います。「悪戦苦闘」の後、転びはしませんでしたが、タダでは起きません。

2.事の経緯

数か月前、成功大学のある先生から、水上遊園地のビデオ教材の翻訳を頼まれ、やらせていただきましたら、同じ先生から「農業改良場」のパンフレットの翻訳を打診されました。水上遊園地の時は、たまたま澎湖島の水上遊園地で遊んだことがありましたので、それほど苦労することなく翻訳できましたが、この「農業改良場」の翻訳については相当専門性がありますので、少々躊躇せざるをえませんでした。

専門家の相談相手が見つかったらという条件でお引き受けすることにいたしました。友人たちに相談すると、あの方がいいのではないかとの話になり、ご紹介いただくことになりました。実はおひとり、昔知り合った方が脳裏にありました。後程詳しく紹介させていただきますが、台南在住の、日本語世代の方で陳俊郎さんと言う方です。電話をかけて相談しますと、ふたつ返事で私のコンサルタントを引き受けてくださいました。

日本に戻る必要がありましたので、日本で翻訳し、出来た部分から台南の陳俊郎さんにEMSで送り、見てもらうことにしました。2、3回資料を送り、再び台南に戻り、お打合せをしましたが、矢張り依頼者(農業改良場の李瑩姿小姐)に直接お聞きしないと分からない部分がいろいろあり、訪問することになりました。
農業改良場も2、3回訪問し、ようやく翻訳を終えることが出来ました。

3、農業改良場の紹介

農業改良場の正式名称は「行政院農業委員会台南区農業改良場」というようで、頂いたパンフレットによると、創立は1902年と書いてあります。日本統治が始まったのが1895年ですから、7年後には「台南庁農会付属農場」の名称で発足していたわけです。1923年には「台湾州立農事試験場」に改称、戦後になって「台南県立農林総場」、「台湾省台南区農林改良場」などの名称を経て、現在の名称になりました。

当改良場では水稲、豆類、果樹、野菜、花卉などの品種改良、栽培技術の改良、開発、収穫後の処理技術、生物技術、植物保護、土壌肥料、農業の機械化、さらに農業の普及、広報活動など幅広い活動を行っています。事業所は本場のほかに分場が4か所あり、研究スタッフ66名、管理部門12名、現業58名合計136名で運営されています。

4.翻訳パンフレットの概要

翻訳対象は農芸作物、園芸作物、環境、広報の4つの部分に分かれており、その中身は次の様でした。
農芸作物:水稲、豆、トウモロコシ、落花生、さつま芋などの品種改良や栽培技術の紹介解説
園芸作物:果樹(マンゴー、パインアップル、グァーバ、など)、野菜(キャベツ、レタス、キウリなど)、花卉(ラン、キキョウなど)の品種改良や栽培技術、生物技術を紹介解説
環境:植物保護(病虫害対策)、土壌肥料、農業の機械化、有機農業などの紹介解説
広報:農業の普及広報活動、農業経営、情報教材などの活動を紹介解説

5.戦前の台湾の農業について

折角ですので、この際、台湾の農業について少し調べてみましたので、ご紹介いたします。

戦前の日本統治下にあっては、日本政府および台湾総督府の台湾に対する基本政策は、「農業は台湾、工業は日本」というもので、日本本土の食糧需要を満たす一方で、日本本土の工業製品を台湾に供給しようとするものであった。

1896年、総督府は甘蔗(サトウキビ)の品種改良に着手、1898年児玉源太郎が総督に、後藤新平が民政長官に就任し、糖業を奨励、1900年に台湾製糖設立。1901年新渡戸稲造により糖業改良意見書が出された。意見書の結果かどうか分からないが、翌1902年には前記のように「台南庁農会付属農場」が発足しています。1919年には農業関連人材育成のための台湾公立嘉義農林学校(現国立嘉義大学)が設立されています。これがあの映画「KANO」の舞台です。1920年には八田與一で有名な嘉南大「土川」に着工。1927年には蓬莱米が誕生した。1930年に烏山頭ダム竣工。

しかし、1934年に日月潭水力発電所が完成して以降、1937年の日華事変勃発を契機に、台湾は工業化への道を進み始めます。1941年には総督府が「農業は南洋、工業は台湾」という方針を出しました。

6.戦後の台湾農業の発展と現在の状況

ある資料(ウィキペディア)によれば、戦後の経済発展期を�経済再建期(1945〜1953)�輸出産業育成期(1953〜1959)�輸出拡大期(1959〜1973)�第二次輸出産業育成期(1973〜1979)�経済のグローバル化(1979〜現在)の五つに分けて説明していますが、農業についてみると次のようになります。�の時期、農地改革(地主の土地を小作人に分配)と生産性向上の努力。�の時期は農業国の様相を呈し、輸出額に占める農産物は80%以上。�の時期は、農業社会が工業社会へ変貌する。��の時期は産業に占める農業のウェートは小さくなった。

国内総生産(GDP)に占める農業の比率は、1952年には35%あったものが現在は2%に満たない。現在のGDPの比率は農業1.4%、工業27.5%、サービス業71.1%(2005年)と言い、農業就業者数は現在5.14%(2008年)だそうです。

農業委員会の2011年1月の発表によれば、2009年の食料自給率は32%(カロリーベース)、生産額ベースでの食料自給率は69.1%、米、野菜、果物、肉類、卵、水産物などの主要食糧の自給率はいずれも84%以上を保持しているが、小麦、飼料用トウモロコシ、大豆などの穀物類は輸入に依存している。

7.陳俊郎さんの紹介

今回の翻訳にあたり、陳俊郎さんに色々ご指導いただきましたが、この方がまことにユニークであり、改めてご紹介させていただきたい。

現在88歳、大学を出られた後日本で言う農林省に就職、10数年勤められた後、スピンアウト、事業を起こし、会社を2つ3つ経営(種子、玩具などの貿易業など)し、子供さん達が独り立ちした後、隠遁生活へ。現在、台南市内に立派なマンションをお持ちですが、そこにはほとんど住むことなく、もっぱら近郊に2反歩ほどの土地を借り、傍らに自称「ホワイトハウス」をお建てになり、農業をしておられる。

週に2回ほどマンションに戻り、近所でピンポンを楽しまれているそうです。私はそのマンションに押しかけ、翻訳についていろいろ指導を受け、翻訳の合間に陳さんと色々な話をしました。

陳さんはご自分の事を「世捨て人」と仰るが、そのような生活が出来るのには、先ず健康でなければいけない、次にある程度の経済的な裏付けがなければいけない、そして農業に強い関心がなければできない、この3つが必要で、他人に迷惑をかけることなく、自分がしたい事を自由にできるのは最高の幸せである、とのことでした。

陳さんは伊達政宗の漢詩、「馬上少年過、世平白髪多、残躯天所赦、不楽是如何」がお好きだそうで、何回もお話し下さった。インターネットで政宗の詩を探し、現代語訳をお借りしてきましたので、ここに記します。「戦場に馬を馳せた青春の日々は遠く過ぎ去った。今や天下は太平。俺の髪の毛はすっかり白くなった。何の因果か、戦国の世を生き延びたこの身である。老後くらい好きに楽しまないでどうするのだ。天もきっとお許しになるだろう。」
正に陳さんの半生そのものです。

8.おわりに

まことに羨ましいような生き方ではありませんか。思いますに、現役時代に真面目に、一所懸命に努力し、働いたご褒美を今頂き、充実した余生を楽しまれているのでしょう。
農業に関する翻訳をきっかけに台湾の農業を多少知り、陳さんと親しく交流することが出来ました。陳さんは現在、ご自分の畑にコスモスを咲かせようとされており、来月12月にはコスモスの花でいっぱいになるそうです。私はこの間、日本に一時戻りますが、年明けには是非とも一面のコスモスを拝見したいものと思っています。

尚、陳さんは台南で一緒に土と生活する人「農友」を求めておられます。