【傳田晴久の台湾通信】臺灣大觀

【傳田 晴久の台湾通信】臺灣大觀 

【臺灣通信(第59号):2012年2月6日】

1. はじめに

 昭和10(1935)年11月発行(臺南新報社)の本『臺灣大觀』をたまたま見る機会があり
ました。日清戦争に敗れた清国が台湾を日本に割譲したのが1895(明治28)年(下関条約)、
その40年後に「始政第四十周年記念台湾博覧会」を開催したのを機にこの本が刊行されま
した。

 拓務大臣児玉秀雄が序文の冒頭に「臺灣の眞價の現はれるのは今後十年の後にあるであ
らう」と書き出しているのを見て、非常に興味をそそられ、パラパラと頁を繰るとまこと
に面白い。これは「台湾通信」にて皆様にご紹介し、台湾を知る一つの手掛りにしていた
だけたら幸いと思いました。

2. この本のいわれ

 私が見たこの本は、国立成功大学図書館の蔵書をコピー(違法?)し、製本したもので
すが、古い本ですのでコピーも止むを得ないのかもしれません。

 「臺灣大觀に序す」として、平塚廣義台湾総督府総務長官は「臺灣は始政以来茲に四十
年、其の赫々たる治績は正に驚嘆に値する。かの李鴻章をして下関条約折衝の際『瘴癘蛮
雨の地』『化外の民の蟠居する地』と云はしめた当時の臺灣を思ひ浮べる時、全く今昔の
感に堪へないのでありまして、吾人は五百万島民と共に唯々廣大無邊なる 皇室の御仁慈に
感泣する次第であります。臺灣の又の名『フオルモサ』は『美しの島』の意味だといふ事
であるが、余は今こそ世界に向って『美しの島』を誇り得る事を喜ぶ。(中略)又此の記
念すべき始政第四十周年を迎へて(中略)今次大博覧会を開催して其の燦然たる文化と産
業とを汎く世に紹介することとなった。この時に当たり」台湾大観を編纂した云々と述べ
ています。

 なかなか難しい文章ですが、「瘴癘」(しょうれい)は熱病、皮膚病などの風土病、
「蛮雨」はスコールのような豪雨、「化外の民」は国家の統治が及ばない民、「蟠居」は
広い土地に勢力を張ってそこを動かない事を意味します。

 この時点での台湾の人口は500万人だったのですね。現在は2,300万人です。

 そしてここで言う博覧会は1935(昭和10)年10月から約2カ月間、台北公会堂など4個所
で開催され、入場者は260万人といいます。発展した台湾を紹介するためのパビリオンが林
立したそうです。

3. 領台以来四十年の成果

 この本(353頁)には40年間の成果について非常に多くの事柄について記しています。大
項目だけを挙げてみますと地理篇、史誌篇、行政篇、財政篇、通信交通篇、経済篇、文教
篇、産業篇、糖業篇、特産篇、州庁編と多岐に渡っています。何れも興味ある事項ですが、
とても紹介するスペースが足りませんので、紹介は台湾での教育とインフラ整備状況に絞
りたいと思います。

 日本が台湾経営上最も力を入れたものに教育があります。台湾を領有した当時、台湾に
おける初等教育機関は書房と称する寺子屋の類であり、高等教育機関は府学、縣学、書院
があったが、それらは「儒学の講習で文章詞華を摘むを専らにして、近代的系統ある組織
だった教育制度」はなかったという。

 台湾総督府が最初に行ったのが島民教育であり、明治28年学務部を発足させ、芝山巌
(今の士林市)にて本島人生徒を集めて授業を開始したが、「然るに教化に受難は附き物
の如く、二十九年一月元旦土匪蜂起して襲来し、学務官揖取道明氏以下六名は凶刃 のため
に斃れた」。現在、芝山巌に六士先生の墓があり、毎年士林國民小学校(芝山巌学堂の後
身)の卒業生によって供養されています。

 このようにしてスタートした台湾の教育は40年後、次のような系統、すなわち初等普通
教育(小学校、公学校)、高等普通教育(中学校、高等女学校、高等学校)、実業教育
(農業学校、商業学校、工業学校、実業補習学校)、師範教育(師範学校)、専門教育
(医学専門学校、高等商業学校、高等工業学校、帝国大学付属農林専門部)、大学教育
(帝国大学)、特種教育(盲唖学校)に発展した。

 昭和9年の統計では公学校は全島に775校、就学児童数は351,691人おり、教育課目は修身、
国語、習字、唱歌、体操、実業(農業、商業、手工)などという。

 これらは体系的な教育であるが、教育を受けた島民は台湾全島人口460余万人中、公学校
卒業者は41万、在学者35万とまだまだ少なく、多数の「無教育者」に対する社会教育とし
て国語講習所(国語を中心とした国民教育960個所)、簡易国語講習所(農閑期の夜間、国
語、礼儀作法を教授、882個所)、青少年教育(青年訓練所、青年団、女子団、少年団)、
成人教育(家長会、主婦会などに衛生、産業を教育)、図書館(78個所)、博物館(歴史、
蕃族、動物、植物、鉱物、標本、理化学機器などを陳列)など様々な教育施設を展開して
いる。

 そしてインフラ整備状況は多岐にわたるが、いくつか紹介すると……

(1)道路は今や「四通八達」
 清国時代には道路らしき道路は無く、交通運輸の不便は言語に絶した。日本は台湾領有
後(1895年)直ちに工兵隊を投入して南北縦貫軍用道路を開設、地方地域の道路も住民の
協力を得て開設、改修し、1930年には自動車道路も整備され、「山村僻地の交通も今や何
等危険なく自由」となった。

(2)鉄道は「官私線縦横」
 清国時代に既に鉄道は敷設されていた(基隆〜新竹)が、殆んど不定期運行であった。
 1899年、南部北部双方より縦貫線工事に着工し、1908年竣工。その他宜蘭線、屏東線、台
東線、阿里山鉄道なども次々に着工し、1923年に開通させた。これらは官営であったが、
製糖事業の発達に伴って多くの私設線が敷設され、官線の及ばない地方部落を縦横に連絡
し、交通上大いなる貢献を果した。

(3)衛生は「行き届いた施設」
 衛生思想なく、飲料水は河川や溜池の濁った水を用い、下水道の設備はなく汚物汚水は
室外に放置されていたが、上水道を設け、明治32年には下水規則を発布し、工事を進め、
「今日では市、街並に大部落に於いては旧来の汚水瀦溜の痕跡すらとどめざるに至った」
と。
 各地に医療、衛生機関を設け、伝染病予防策を講じ、チブス、コレラなどの撲滅を図っ
た。

(4)水利(飲用、工業用、潅漑用)は「嘉南大?開設」
 最近良く知られるようになった八田与一氏の功績で、「嘉南大?の台湾蔗作農業に対す
る施設としては正に新面目を発揮せるもので、又大いなる革命でもある」と讃え、目的を
旱魃及び給水に苦しんでいる土地に対して潅漑・排水の設備となし、水稲甘蔗その他農作
物の増収を図ると説明している。

4. 中華民国はこの成果をどう見たか

 伊藤潔著『台湾』によりますと、「台湾総督府は1935年10月に『台湾始政四十周年記念
大博覧会』を台北で開催した。この時、中華民国国民党政権は福建省と厦門市の幹部を中
心とする視察団を派遣し、博覧会はもとより日本統治下の台湾の施政を、つぶさに視察さ
せた。視察団は帰国後の1937年に、『台湾考察報告』なる報告書を刊行した。

 この報告書は、日本の台湾統治に最大級の賛辞を惜しみなく呈しており、いわく『他山
の石』『日本人にできて中国人になぜできないのか』『わずか40年の経営で、台湾と中国
の格差は驚くばかり』と評して、日本帝国主義の台湾支配を批判するどころか、その成果
に驚愕し絶賛している。」(同書121頁)と記しています。

5. 10年後の姿

 『台湾大観』の序文は「台湾の真価の現われるのは今後十年の後にあるであろう」と述
べていますが、その10年後について伊藤潔氏の著作『台湾』は次のように書いています。

 ポツダム宣言の受諾により、日本は連合国軍に降伏し、1945年9月2日、東京湾の米国戦
艦ミズリー号上において、日本国全権が連合国に対する降伏文書に署名した。そして同日、
連合国軍司令部は指令第一号を発表、その一般命令第一号IのAにおいて、中国(満州を
除く)と台湾およびフランス領北ベトナムの日本軍に、蒋介石(1887―1975)大元帥への
投降を命じている。この命令にもとづいて、台湾と北ベトナムは蒋介石麾下の中国軍に占
領されることになった。

 台湾の領有権の変更に関する国際条約もないまま、素早く台湾を中国の「台湾省」とし
たのは、カイロ宣言に依拠してのことであった。(同書137〜138の要約)

6. おわりに

 『台湾大観』の冒頭の序文は、今後10年の後に「真価」が現われる、いうなれば清国の
李鴻章をして「瘴癘蠻雨の地」、「化外の民の蟠居する地」と言わしめた台湾を、日本人
と台湾人が力を合わせて、本来の意味たる「フォルモサ」、すなわち「美しの島」を目指
し努力し、その真の姿は10年後に実現すると述べているのです。

 その10年後、大東亜戦争に敗れた日本は泣く泣く台湾から離れ、丹精込めて育てあげた
果実は、あろうことか蒋介石に掠め取られたのです。

 この「台湾通信」を書いている時、親友がメールをくれました。年寄りの三大原則、「怒
るな、転ぶな、風邪引くな」、特にオマエは「怒るな」を忘れるなと。あぁ、これを怒ら
ずにおられましょうか。