「台湾人の独立願望とその歴史的背景」(上)

「台湾人の独立願望とその歴史的背景」(上)
                                    
メルマガ「はるかなり台湾」より
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「湾生回家」の本や映画をご覧になって初めて湾生という言葉を知った方もいるかと思います。ぼくは台湾に住み始
めた翌年1989年に湾生の人たちとの出会いがありました。その中に一人である篠原正巳先生は1917年生まれで、台中
師範卒業後終戦まで小学校の教壇に立っており、1946年日本に引き揚げました。その後、台湾史と台湾語の研究を続
けていており常々自分は「日本国籍の台湾人」だと自負しておられるほど台湾に対して深い思いがあったのです。
その先生が書き残していたものを、2004年1月のメルマガ記事で配信したのですが、先週末の台湾の馬総統と中国の
習主席の「馬習会談」のニュースを見ていて、皆さんにこの「台湾人の独立願望とその歴史的背景」と言う文章を読
んでもらいたく再び今回紹介することにしました。長い文章なので、本日より3回に分けて配信いたします。

●台湾人の独立願望 その歴史的背景
        篠 原 正 巳

台湾から引揚げ後のことである。私は台湾育ちを自称しながら、台湾の歴史についてはほとんど知らないことに気づ
いた。お粗末な話であるが、遅まきながら日本統治時代だけではなく、台湾全体の歴史についても調べ始めた。手が
かりには、幸いにして台湾の歴史研究者として伊能嘉矩のような優れた先人もおり、残された文献類も多い。着手し
てから長い年月が経った。

 自身が台湾の歴史や言語に関わりつづけ、また台湾を故郷とする者の思いから、戦後の台湾の推移にも深い関心を
もって見守ってきた。ニニ八事件や白色テロの恐怖の時代のことも熟知している。書かれたものを読んだり、自分で
見たりしたことのほかに、直接に台湾の人々から聞いたことも多い。心の痛むことのみが多かった。
しかし1987年の戒厳令解除以後の民主化への動きには、目を見はるものがあった。ついに民主的な政権を台湾人自身
の手で誕生させた。このことの持つ意味は大きい。長い暗黒の時代を知る者には、予想もつかない展開であった。
現状は端的にいって、台湾の完全な独立を達成できるのか、それとも中国に併呑統一される道をたどるのかという
重大な岐路に立っている。

私は過去の経歴から台湾に知人は多いが、ほとんどは日本時代を経験した旧世代である。接していて痛感するのは、
この世代には「自分たちは台湾人であり、中国人ではない」という意識が強固なことである。いわば台湾人としての
アイデンティティである。私には理解できるし、私も台湾人を中国人だ、などと思ったことはない。同調していう心
情論ではない。私なりの根拠があるが、それは後でのべる。だがこのアイデンティティも、戦後渡台した外省人は別
にして、本省人の間でも確立されていないのが実情のようである。現在では少数となった旧世代と、多くを占める戦
後の世代の間には、意識に大きな落差を感じる。

若い世代には程度の差はあれ、中国人としての意識をもつ者もいるようである。李登輝氏はその原因を戦後の教育に
よるものと指摘しているが、同感である。私は若い世代の人たちとのつきあいは多くはない。だが、著作を通じて留
学生たちとも知りあう機会を得た。一般的にいって若い世代に共通していえることは、郷土である台湾についての知
識に欠けている。まず台湾語を話せない者さえいる。話すことはできても、文言音や白話音の区別もつかない。深く
は知らないのである。台湾の歴史についてもまったく知らない。しかしこれは若い世代だけの責任とはいえない。
教えられていないからである。戦後の教育目的は、国民党にとって都合のよい中国人を育成することであった。台湾
人を中国人として育てることである。そのために台湾そのものの存在を否定し、台湾人としての意識を抹殺すること
を図った。「台湾」ということばは、長い間政治的禁句であった。学校で台湾語の使用を禁じ、台湾の歴史や地理を
学習することも禁止した。台湾語の学習を含め郷土に関する学習が許可されたのは、民主化が促進されてから後のこ
とである。

教育はしばしば政治的意図のために利用される。戦後の台湾の教育はその典型と思われる。中国人として中国歴代の
王朝と君主名は記憶させても、台湾がいかなる支配者によって統治され、いかなる政治が行われたかは全く教えない。
そのために、若い世代は台湾に渡ってきた先祖たちの開拓の困難や労苦や、現に住んでいる郷土の発展の歴史も知ら
ない。揚子江や黄河のことは知っていても、台湾の河川が、流域の開拓やその後の発展とどう関わってきたか等、郷
土に即した地理や歴史については無知である。現実の生活とは遊離した、中国人としての観念的の学習のみを強制さ
れてきた。どうみても異常な時代に思えたが、現状もその残像をひきずっているように思う。

これでは若い世代に、郷土の言語や文化を蔑視する風潮が生まれるのも無理はない。ましてや郷土を愛する心や、
台湾人としての意識や自覚など育ちようがない。継承する者を失った言語や文化は滅亡するほかはないのである。
ここで旧世代の台湾人意識について考えみたい。率直にいって日本統治時代と戦後、それも当初と現在に至るまでの
経過には、いくたの屈折があったように思う。台湾人に台湾人という意識がはっきりした形で芽生えたのは、日本統
治時代になってからだと思う。植民地制度下において被支配の立場から支配者である日本人に対立する意識として生
まれたものである。学生運動や民衆の政治運動のもあらわれている。

日本の敗戦によって事態は一変した。私たちは敗戦から引き揚げまでの約半年間は台湾にとまっていた。当時のこと
はよく記憶している。台湾接収のために進駐してきた中国兵を、歓呼して迎えた台湾人たちの姿が瞼に浮かぶ。日本
の支配から開放された、これから自分たちの時代が始まるという期待感からである。正義の味方、開放者として歓迎
した。この時心情を呉濁流は『アジアの孤児』の中で率直に吐露している。

だが、そのような期待が無残に裏切られたのを知るのに時間はかからなかった。先ず兵士や接収員たちの横暴、強欲
な金品の略奪にはじまった。接収員はその立場を利用し、またこれに便乗する不逞の分子たちは、争って日本時代の
財物を横領して懐にした。官憲は支配者の如く民衆に君臨して専横の限りを尽くした。法を無視していたずらに捕ら
え、釈放に金を要求した。台湾人は日本の奴化教育を受けているから、再教育しなければ使うわけにはいかないとい
う理由で、職場の主要なポストとから排除した。台湾人はどんな思いでこれを見ていたのか。屈辱の過去とされる日
本の植民地時代には、かつて目にしたことのない光景である。台湾人の外省人と国府に対する不信と反発心は3万人が
殺戮された1947年の二二八事件と、1949年の国府台湾移転後の白色テロによる弾圧を契機に、決定なものとなった。

中国の歴代の王朝は君主の公の観念はない。すべては私である。統治は権力者の恣意による人治である。蒋介石は国
民党という看板を背負ってきたが、国府政権の実体は蒋一族による王朝政治にほかならない。当然のように台湾を私
物化した。役人は特権をかさに汚職を重ね、公然と賄賂を要求した。役人の汚職は近代に始まったことではない。習
い性と化し体質となった中国古来の伝統である。清国時代の統治を体験した台湾人の先祖たちは、貪官汚吏の実態を
巧みに風刺した「三年官二年満」という俚諺を残している。

台湾人に今なお深い心の傷痕として残っているのは、白色テロ時代の弾圧の記憶である。人権を無視した冷酷で卑劣
な手段により、軍と秘密警察によって組織的な思想弾圧が強行された。恐怖の暗黒時代である。李登輝氏のいうよう
に夜もおちおち眠れなかった時期である。

このような体験を通じて旧世代の台湾人は同じ漢民族ではあるが中国人は台湾人とは異質の民族であることを思い知
らされた。台湾人とは価値観や倫理観、ものの考え方に明らかな相違がある。これを民族性の違いとして感じた。
同国人であることを峻拒する最大の理由である。

判断に欠かせない要素として、対比する価値や倫理や事象との比較がある。一方的なことのみを教えられ、比較する
ものを知らない者はそれだけを信じる。戦後の教育をうけた台湾の世代がそうである。また戦後の歴史教育をうけた
日本の旧世代も例外ではない。

台湾の旧世代は比較するものを待っていた。その最なるものは法治の記憶と尊法の観念である。国府政権による人治
の無法さを目の当たりにし、法治との違いを知った。次には公私の別を弁える「公」の観念である。外省人は職場に
おいても、すべて自己の利益を中心に考えた。「公」の観念は全く欠如していた。ほかにも台湾人なら誰もが嫌悪す
る所業が目立った。渡台してきた外省人に、質の悪い分子が多かったことも一因であろう。「台湾人は中国人ではな
い」という主張には、体験に基づく実感がこもっている。
(以下次号へ続く)


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