【遥かなり台湾】台湾歌壇の生みの親、呉建堂さん

【遥かなり台湾】台湾歌壇の生みの親、呉建堂さん

   メルマガ「遥かなり台湾」より転載
                          

日本と台湾の架け橋になる会 世話人 喜早天海

本日、日本教育を受けた人たちを中心とする短歌の会「台湾歌壇」創立50周年の佳節を迎えました。
そのことについて21日付けの西日本新聞記事に掲載されましたので、日本と台湾の架け橋になる会の

FBに転載しました。興味のある方は下記のサイトにアクセスしてご覧になって下さい。
https://www.facebook.com/kinma1951/

本日のメルマガ記事はその台湾歌壇の生みの親とも言うべき呉建堂さんについて紹介してみたいと思います。
今から50年前と言えば、台湾は中国国民党政権の下でまだ戒厳令が施かれていた時代、医師で歌人の呉建堂氏
(1926年・大正15年生まれ、筆名:狐蓬万里)ら11人の短歌愛好者が集まって「台北短歌研究会」を設立し、
翌年「台北歌壇」と改名、その後2003年に「台湾歌壇」になったのです。

ぼくがこの会を知ったのは1994年に「台湾万葉集」の本が発刊された時です。読者の皆さんの中にも「台湾万葉集」
をご存知の方がいるかと思います。ぼくはある雑誌を見て知って、早速本屋に行って、この本を捜し求めたのです。
すると、しばらくしてNHKで「台湾万葉集」の特集番組が放送されたのです。1時間半にわたる番組でしたが、
「日本人とは何か」とつくづく考えさせられたのです。番組の中で強烈な印象を与えたのは、蕭翔文先生の短歌でした。
「日本人になり切らんとして なり切れぬ 苦しみ重ね 戦ひ終えぬ」

先生はこう言っているのです。
「わたしたちは、自分の気持ちを表すのに文章よりも、歌を詠んだ方が簡潔にしかも深い心の表現ができるのです。」と。

その蕭先生は自分の娘さんの結婚披露宴の時に
「現在を 把握して来し 積み重ね 新しき今日を 迎ふを祝う」
と短歌を詠んで、彼女の前途を祝福したのです。すると、娘さんは即座に
その場で父親に歌を返したのです。
「新しき 今日を迎う 我を支えし 父の巨きな手 母のやさしき手」
この時の先生は感激して涙を浮かべていました。しかし、この番組を見た日本人も同様に感動したと思います。
ぼくは、このシーンを見て、本当に感動しました。日本人でさえ、短歌の詠める人は少ないのに、この人たちは
日本人以上に日本人ではないかと思ったのです。

『台湾万葉集』は上中下三巻からなる歌集で編著者は故呉建堂さん。日本統治時代下の旧制台北高等学校在学中に、
万葉集学者で有名な犬養孝先生との出会いが、短歌を今は異国となった台湾に植え付けるきっかけとなったのです。
ペンネームの狐蓬万里の名は例え一人になっても命の続く限り短歌を歌い続けていく決意を示したものだそうです。
その決意のもとに生まれたのが会員らの歌を集めた『台湾万葉集』全三巻なのです。日本では平成六年(1994)に
刊行され大きな反響を呼び、大岡信氏らの絶賛を得、1996年には『台湾万葉集』が菊池寛賞を受賞。台湾人として
日本の文学賞を獲得した第一号となったのです。
 その狐蓬万里さんの詠んだ多くの短歌の中からを二つ紹介します。
   日本語のすでに滅びし国に住み 短歌を詠み続けるや幾人
   短歌(うた)とふを いのちの限り 詠みつがむ 異国の文芸(ふみ)と 人笑うとも
また平成八年(1996)1月12日に宮中歌会始にも国交のない台湾の歌人(呉さん)が招待された際に詠んだ歌から二首紹介します。
   宮中の歌会始に招かれて日本皇室の重さを知る
   思ひきや外つ国人と成りし今宮中参内許さるるとは
呉さんは1998年12月に亡くなりましたが、生前の平成七年(1995)9月に山口県下松市米泉湖畔に呉さんの歌碑が建てられたとか、
そこに刻まれた歌は
   台湾と 日本の睦み ここに来て 祈りしがあり 平成の代に
いつの日か呉建堂さんの歌碑にある場所を訪れてみたいと思います。

11人でスタートした会員は現在約120名。日本人が約50名を占め、30〜40代の若い世代も増えているとか。呉建堂さんの作られた
台湾歌壇は高齢者と若い人たち結び、また台湾人と日本人を結んでいます。〜みそひと文字(31文字)に込められた思いを永遠に
次の世代に詠み継がれていってほしいものです。

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